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テーマはトラベル)

イタリア紀行

じぶん探訪 その7-1.  イタリア紀行T 「出発前の暗雲晴れて」             

スタイルは[見出し1、FontSize14pt、太字] 5箇所

行き先をイタリアにした理由

仕事にひとつの区切りがついたときには、妻を海外旅行に連れていく。

そんなことが暗黙の了解となったまま、いたずらに年月がすぎていく。

それがふとした家庭環境の変化もあって、また、もうこの機会を逃すとお互いの体力がもたないのではという危惧から、2009年初頭からにわかに現実の話になってきたのである。

おりしも、前年秋からの100年に一度という不況のさなか、普通なら海外旅行などちょっと違和感があるところだが、そんな時期にそれが現実味を帯びてくるのがわが家の特殊性である。もちろんそれは、リッチであることとは正反対の性格のものだが。

また、円高や輸送コストの低減というのも追い風となっていた。とはいえ、余裕があるわけでもないのに、当初、妻と2人でというのがごく自然のきまりであったが、なにを思ったのかわたしは、

「じゃY(娘)もいっしょに行くか?」

経費がすべて親もちなら、娘に異論があるハズはない。よくよく考えてみれば、娘の分の予算をプラスして当初の夫婦2人だけで行くとすれば、それだけ充実したツアーが楽しめたわけだが、なぜかそのときはそう考えなかったのが不思議である。

 

行き先をイタリアにした理由

行き先であるが、もうこれがわが家では最初で最後であろうから、ヨーロッパしかない。これは家族で一致していた。

わたしはすでに仕事で、ヨーロッパではパリ、マドリード、ロンドンに行ってはいるが、妻はかわいそうにどこにも行っていない。娘にしてもそうである。

わたしは自分のパリ初体験の衝撃から当初、少なくともパリだけは訪れるべきであることを主張した。むろん自分のためではない。わたし自身にとっては効率性からいえばパリははずし、まだ未開拓のイタリアほかが望ましいのだから。

妻はドイツのロマンチック街道とやらに未練があったようだが、ドイツの当該地を加えるとそうとう規模が大きく煩雑になるので妻に断念させ、イタリア料理に興味を抱いていて本場ナポリのヒザが食べたいという娘の希望(これは結局は叶えられなかったがその顛末は後ほど)もいれて、最初は、パリ+イタリアあたりで検討した。

しかし、そのプランでもなかなか日程や予算、またこだわった直行便がないことなどで、結局、パリを加えるのも断念することにした。

最後のチャンスの妻のために、また娘の将来への影響のために、パリはぜひと思ったのだが、当の2人はいずれもそれほどパリにはこだわっていないのだ。なんたること、ひとがせっかく!そんなことなら、イタリアにしぼっていいよ。オレはかまわん・・・。(こんなふうに思うのは、わたしのほうがパリにこだわっていて、もういちど行きたいと思っていたからかもしれない)

 

出立前に暗雲。でも結果はまずまず

海外旅行計画に不慣れなわたしたちは、自分たちでのオリジナルプランニングを怠り、ミラノから入り、ベネチア、フィレンツェ、そしてローマというイタリアの主要4都市を含み、さらにオプションで、ピサやナポリ経由のカプリ島まで加えた旅行社御用達の既存の強行プランを採用してしまった。

ものぐさなわたしは、自由行動が多いのはかえって面倒なので、あえてそこにオプションをつけ、ほとんどの日程をガイド付ベルトコンベア式に周っていられるほうがラクでいいと思ったのだが・・・。現地へ行って少し慣れたいまは、オプションをひとつはずしゆとりをつけると同時に、とくにローマをもう少し自分たちで探検してみたかったという思いがある。

ともあれ、訪問した前日はどしゃぶりだったというベネチアなどの天気を考えると、一度も雨に降られず、トラブルといえば妻が2度ほど転んで足をくじいたり、寝不足と疲労で母子ともども後半では夕食をオミットした程度で済み、まずまずの満足できる結果となったのは幸いだった。

出立前の暗雲とは、以下。

暗雲その1、テポドン騒動      (記事省略)                                                 

暗雲その2、イタリアで大地震   (記事省略)                                                 

 

地理:イタリア基本情報             スタイルは[見出し3FontSize12pt、太字] 3

国名

イタリア(Italia)

首都 

ローマ

人口 

5,990万人

言語 

イタリア語

通貨 

ユーロ

国土面積 

301230km2(日本の約0.8)

 

 

 

 

 

 

 

 

旅行計画                              スタイルは[参照、FontSize11pt、下線] 箇所

海外旅行計画に不慣れなわたしたちは、自分たちでのオリジナルプランニングを怠り、ミラノから入り、ベネチア、フィレンツェ、そしてローマというイタリアの主要4都市を含み、さらにオプションで、ピサやナポリ経由のカプリ島まで加えた旅行社御用達の既存の強行プランを採用してしまった。

ものぐさなわたしは、自由行動が多いのはかえって面倒なので、あえてそこにオプションをつけ、ほとんどの日程をガイド付ベルトコンベア式に周っていられるほうがラクでいいと思ったのだが・・・。現地へ行って少し慣れた

いまは、オプションをひとつはずしゆとりをつけると同時に、とくにローマをもう少し自分たちで探検してみたかったという思いがある。                                                

408() 成田発1340分発→バルセロナ行き  スタイルは[強調斜体2FontSize14pt] 箇所

機窓展望                             スタイルは[参照、FontSize11pt、下線] 箇所

 

狭いシートから逃れて、シベリアを一望                                                       

3月後半からダイエットを諦めたわたしは、JALのエコノミーの狭いシートに大いに苦労することになる。数年前、ニューヨークに行ったときはANAだったのだろうか。もっと広かったような気がする。わたしのようなデブにはビジネスクラスでないととても長時間はしんどいのだが、ビジネスはほんとに割高だねえ。わたしはデブだから少々辛いが、もし普通の体型ならエコノミーで十分だと思う。席が広いだけであの値段は法外で、払う価値がない。先に乗せてくれる?そんなのどうでもいい。

トイレに行こうともがきながら席を立つと、窓からシベリアの凍土が見えた。ウラル山脈までもう少しの地点ではイタリアまでまだまだ道のりは遠いが、なんとか機体からこの景色を撮ることができたし、いっときの寛ぎにもなった。そばでわたしより年配の人のよさそうなおじさんが、「昔はここをのぞいたりするとスパイ容疑でつかまったもんだ」という。いつの時代の話なんかいなあ。(イタリア紀行Uに続く)


 

じぶん探訪 その7-2. イタリア紀行U 「ミラノ着。期待はずれも天気快晴」       

48()ミラノ着 現地時19時頃 STA HOTEL

地理:ミラノ(Milano

ロンバルディア州

州都

ミラノ県 

県庁所在地

人口 

130万人

面積 

182km2

 

ミラノ雑感

このツアーは、まずイタリア北部のミラノに着陸して、以下順にベネチア、フィレンツェと南下し、最終的にローマから日本に帰国する。イタリアを南北に分けると、中部に位置するローマもどちらかといえば北イタリアに属する。したがって今回のツアーは北イタリア旅行ともいえよう。ナポリやゴッドファーザーでおなじみのシチリアなどは南イタリアに属するというわけである。

南北のちがいをひとことでいえば、北は裕福で歴史的建造物、芸術作品が多いのに対し、南は貧しいけれど自然の景色が素晴らしい、ということだ。ただ、北が富裕というが、イタリアの経済活動の70%を占めているのが、実はローマではなくミラノであるという。

ミラノを本拠地とするサッカー・チーム、ACミランが有名な都市である。ミラノがリッチな街ならさぞかし美しいところかと到着地点に期待したのだが・・・。

旅行社さん、これはビジネスホテルじゃあないの?

いまどきカードキーではない旧式の部屋のキー。右に2回回しがわからず少しとまどう。

成田を13:40に発ってミラノに着いたのが日本時間で翌深夜の2時すぎ。これは現地時間ではまだ前日の夕刻19時ころになる。時差は夏時間で7時間。イタリアが7時間遅くなるというわけだ。

ヨーロッパの春〜夏は日没が遅く、夜8時ころまではまだ明るい。しかし、空港での手続きを終え、バスに乗ったときはすでに日は暮れていた。

わたしが初めて海外旅行でパリのシャルルドゴール空港に着いたときも同様にホテルまで夜の街を走ったのだが、暗かったにもかかわらず初めて眼にする窓外の美しい街並み・景色に素直に驚かされた。だが、ミラノはなにか色あせている。はっとするような建造物も見えないし、これではまるで東京と同様である。わたしはかねがね妻や娘に、「とにかく街の様子がぜんぜんちがう。すべてが美しい」などと吹聴していたのだが、これでは示しが付かない。

やがてバスは町から郊外へと抜け、なにか物寂しい箇所で停車した。景色はガランとした工場跡地のようなイメージ。添乗員は、市内のホテルがキープできなくて郊外となりました、としれっと説明していたが、これがAグレード?

さらに、ホテルロビー脇のとりあえずキーをもらうために集まった場所ではシートがはがれかけたソファーなどひどい仕様。10何時間も機内に閉じ込められてさあっ着いたと思ったら、こんなスタートでは思いやられるなあ。そんな表情がツアー客35人全員の表情にあったといえば誇張だろうか。

また、添乗員は、彼が悪いわけではないが、こんなことも言い、みんなの気持ちをさらに暗くさせた。「あいにくと明日の天気予報はよくないですね。雨具の用意をして明朝よろしく」。ホントかよ。月が出ていたのに。そしてわたしはここ数年、自分でも驚くほどの晴れ男なのに!

着陸少し前で夜食用の機内食が出されたわけだから、ホテルでは夕食をとることはなく、飛行機に乗ってきた者には少し長い夜を経て現地時間の翌朝へと移行することになる。

が、明朝は6時のモーニングコールで、未明からもう出立準備である。天気の予測といい、ビジネスホテルのような設備といい、また、翌日からのあわただしさといい、さい先は決していいとはいえない雰囲気だが、とりあえず明朝からが観光の本番。まずは、ホテルの部屋を検分してみよう。

水周りの不備は定番だが、部屋はまずまず                                                      

のっけからちょっと当惑したが、ロビーを見てみると、閑散としてはいるが、まあこんなものか。(写真下左)旧式の鍵で開錠に少し手間取ったが、部屋に入ってみると、意外と清潔ではないか!(写真下右)ちなみにわたしの家族は3人グループなのだが、だいたいツアーは2人セットでツインルームがデフォルトである。

家族3人ならトリプルという例があるがすべてのホテルにあるとは限らない。通常なら、わたしと妻が同室ツインで、

娘がシングルほかということになるが、わたしのイビキがキョウーレツなため、家族合意により妻と娘が同室、

わたしは別室ということにした。ツアーの場合、1人での参加による部屋の割当て、仕様は不確定要素が多い上に、

10万円ほど割高になってしまうがしかたない。ツインの部屋をわたし1人でというのがまあ余分に支払っているか

ら当然のような気もするが、シングルの小さな部屋に閉じ込められてしまうこともある。ここミラノではツインの

1人使用ということに一応なったようである。(以下省略) その7-3

 

じぶん探訪 その7-3.  イタリア紀行V 「お待ちドゥオーモ。ミラノ・ヨーロッパ」    

49() 午前ミラノ観光

ミラノ観光

いよいよミラノ観光だが、しかし、たった半日しかない。著名なところをすべて周れるはずはない。わたしたちが観ることができたのは、以下の4ヵ所である。しかし、結果的にはそれで十分だった。圧巻は最後に待っていた。

 

スフォルツェスコ城(市立美術館)                 観光名所 見出し2  FontSize12pt  太字           

ミラノでもっとも重要なルネッサンスの建造物が、このスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)

やっとここにきて、わたしは家族に「これがヨーロッパ」というものを見せることができてほっとした。もうこれ以降は、洪水のような圧倒的なローロッパ色に、こうした苛立ちは掻き消えてしまった。

 

1450年に、ミラノの公爵フランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築してそれが現在の姿として残っている。内部はミラノ市立の彫刻美術館としても公開され、ミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ」などが展示されている。

 

ミケランジェロ未完の大作、ロンダニーニのピエタ

ミケランジェロが創ったピエタはいくつかあり、これは彼が死の直前まで彫り続けた第4のピエタ。この大理石彫刻は、1952年にここに収蔵されるまでローマのロンダニーニ邸の中庭に置かれていたことから「ロンダニーニのピエタ」と呼ばれる。

►ピエタとは・・・ 死んだキリストを抱く母マリアの絵や彫刻のことをピエタと呼ぶ。

この美術館の目玉の作品で、左側に立っている棒状のものが最初の構想にあったイエスの右腕だとか、その位置に置くのは不自然な感じもするがかといって別のところにおくとかえってバランスが悪いのでそのままにした云々と説明があったが、こうした美術品には造詣が深くなく、世界史にも弱いわたしには、ふうん。

ところで、現地専用ガイドの説明もさることながら、この専用イヤホンはとても性能がいいね。

かなり離れても鮮明に聞こえるから、聞きながら別のところで撮影したりすることも可能。

もちろん日本人観光客も多いのだが、イタリアは世界の観光地、各国からの団体ツアー客も多く見られた。そんななかで、イヤホンなしで「さあ、皆さんわたしの近くに集まって〜(多分そう言ってるのだろう)」と汗をかきながら大声を出している外国人ガイドを尻目に、明確鮮明なガイドの説明を整然と聞けるのは、日本の先端技術のなせる業だなあと。あれっ、このイヤホン、中国製か?

内部のステンドグラス。

城内古地図 

中庭にころがる石の砲弾

城内の市立美術館のパンフレット(The Castle Pinacoteca)

  これは城内の絵画館のパンフレットの表紙と裏表紙(英語版。日本語版はなし)。全8ページ。中面6ページ分は割愛。Pinacotecaとは絵画館の意。

 

スカラ座                                                    観光名所                

正直いうと、オペラやミュージカルにはまったく食指の動かないわたしなので、スカラ座と聞いてもピンとこなかったが、ここは、世界でもっとも有名な、また世界最高の歌劇場のひとつである、ということらしい。

余談だが、オペラが一般的ではない日本でスカラ座というのは主に映画館の名前で、わたしの故郷にもそんな名の劇場があったが、それは18歳未満お断りの成人映画専門だった。というわけで、スカラ座には悪いがその名にはあまりステータス性を感じない。

ミラノのスカラ座では、どんな席でも背後から音が聞こえるなど素晴らしい等々ガイドがいろいろ説明していたが、肝心の劇場内は撮影禁止のため、このコンテンツをつくっているいまは映像と同様に記憶もすっかり消えかかっているような始末である。

なんの変哲もない建物外観、入口(写真上)と、以下、劇場脇の広間かなにか忘れたが、まばゆいシャンデリアのカットだけ紹介しよう。スカラ座には現在ロビーから入場できる博物館が付属していて、絵画や彫像、衣裳などオペラに関係する収蔵品があるということだが、このシャンデリアの部屋もそのひとつなのだろう。

(入口の写真にMVSEOとあるが、これはMUSEOすなわち博物館もしくは美術館の意味。イタリア語はさっぱり分からないが、古代ローマではラテン語であり、VUの区別はなかったという。ここではラテン語を用いているのだろう)                                                 

 

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア                               観光名所           

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガレリア(Galleria Vittorio Emanuele U)は、世界でいちばん美しいといわれるアーケードの名称。

ガレリアの意味がわからない?

・・・・・ガレリアとは、ガラス張りの屋根のある大きなショッピングセンターのこと。

では、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とは?

・・・・・イタリア王国(1861年建国)の初代国王の名前。

(これ常識かな。でもわたしは初耳に近い!教養ないね)

 

前述のスカラ座と次に紹介するドゥオーモを結ぶ十字型のアーケードで、ガラスドーム四隅には1857年に完成したフレスコ画が描かれている。これは4人の女神で、それぞれアジア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパと当時の世界を構成する4大陸をイメージした寓意画となっている。(写真上: どれがアジア、アフリカ・・・なのか不明、また1種撮り忘れ)

►フレスコ画とは・・・fresco とはイタリア語で新鮮なの意。壁に漆喰を塗り、それがまだ生乾きの間(=フレスコの状態)で顔料などで描く技法。失敗すると漆喰を剥がすしかなく、やり直しがきかない。

天井のガラスを通して自然光が、このフレスコ画や床のモザイクを浮き立たせる優美な設計で、4階建ての建物の1Fにはグッチ、フェンディ、ルイ・ヴィトンなどの高級ファッションブランド店やバー、カフェ、レストランが優雅に立ち並んでいる。(写真下)

☆ここの出店に関しては、黒地に金色のブランド名というデザインで統一されているようだ。ガイドの説明で知ったが、マクドナルドがここに進出するときに、トレードマークの赤は拒否され、このスタイルを守らされた。ほんとうはファストフードなど存在すら否定したかっただろうが、これは市民の利便性を考え百歩譲ったのだろう。イタリアの美意識に乾杯!

中国共産党はともかく、赤は好戦的、また商業的な色だ。シックなヨーロッパ調には合わない。エコノミックジャパンも自然の破壊ばかりでなく、美的センスを磨きたいものだ。

そして、ガレリアを抜けると・・・

アーケードを抜けると眼前に見えてきた荘厳な建物。

でも、まだここでは、その屋上に上ることになるとは思っていなかった。

 

ドゥオーモ                                                観光名所                    

どうもお待ちどうさまと、ついいいたくなるが、ミラノの象徴とも呼べるこの建物が、ドゥオーモ(Duomo di Milano)

500年近い歳月をかけて建てられた、訪れる人すべてを圧倒する繊細かつ華麗なゴシック教会である。

►ドゥオーモとは・・・・Duomoはイタリア語で、街を代表する教会堂のこと。語源はラテン語のDomusで、神の家の意。

ミラノのドゥオーモ着工は1386年、大司教アントーニオ・ダ・サルッツォとミラノ公国の領主 ジャン・ガレッツォ・ヴィスコンティの命により、聖母マリアに捧げるために建設された。場所は、古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂だった。その後、度重なる戦役のため何度も中断する中、1813年、イタリアに侵攻してきたナポレオンによりようやく完成のときを迎えた。

 

ドゥオーモの屋上へ

ドゥオーモの最大の特徴は天に聳える135本の尖塔で、その天辺のひとつひとつに聖人の彫像が立っている。

また、柱や壁にはひとつひとつの表情が異なる繊細な3500体の彫刻がある。

それらを見ながら、観光客で混雑している回廊を抜け、階段を登りながら屋上をめざす。

ミラノ市内が一望でき、とても気持ちがいい。

 

そうとう歩いたような気もするが、まだ最終の階段が見えてこない。下右の写真に写っているのは、わたしの連れ、かも知れない。このドゥオーモの観覧はとても疲れたと後で言っていたが、よく登れたと満足感も。 

この尖塔群の先に、どうやら登り階段があるようだが・・・。

 

昼食後、バスにてベネチアへ                                                           

やっと海外旅行にきたんだなあ、という気分で、次の訪問地ベネチアへ。
その前に、ミラノ市内で、昼食。
メニューは、ミラノ風リゾットとミラノ風カツレツ(豚肉)、そしてデザートはリンゴのタルト。
フランスならともかく、わたしはイタリア料理にはそれほど期待をしていなかったし、まあ旅行全般を通じて、その程度のものばかりだったといえる。少々塩味がきついのが特徴ということだが、塩辛いのが好きなわたしはこれはまったく気にならなかった。
イタリアびいきの娘は、塩辛いものが苦手だといままでいっていたくせに、平気で食べていた。
もちろんもっとおいしい料理がほかにたくさんあるのだと思うが、特殊なもの極めて高価なものを除けば、パスタにしてもなににしても、もはや日本で食べたほうが同じ値段ではおいしいのではないか。そんな風にも思えた。
ホテルの朝食はどうということのないバイキングだったし、昼食のカツレツなど、わたしの家の近くの肉屋やラーメン店のトンカツ、チャーシューのほうが数倍、おいしいと思う。もう忘れていたが、昼食をとったレストラン (日本でいえば地方の場末の定食屋レベル) は味もそうだが、メニューの品が不足していたり、店の造りもひどいものでこれは旅行社の手抜きか選択ミスだろう。

さて、ベネチアへ移動するバスの車窓から見た景色はとても美しかった。これは、後日のフィレンツェ移動時にさらに強烈に感じたのでその項目で説明しよう。
写真は、日本では見たこともないなにかの畑。特産から推理すれば、オリーブかぶどうだろうか。(イタリア紀行Wに続く)

じぶん探訪 その7-4.  イタリア紀行W 「ベネチア迷路ホテル」             

49日(日) 午後ミラノ→ベネチア 約150km

地理:ヴェネツィア(Venezia)は、イタリアの北東部に位置するコムーネ(:自治体の最小単位)

ヴェネト州

州都

ヴェネツィア県 

県庁所在地

人口 

27万人

面積 

412km2

日本においては、英語読みの「ヴェニス」という呼称もしばしば使われる。

 

さて、次はベネチア。ミラノ市内観光の午後、一路南下ではなく東進してイタリア北東部、アドリア海に面するベネチアに向かい、夕方着。ちなみにミラノからベネチアまで約150km

本格的なベネチア観光は翌日になるが、本編7-4はベネチア到着時から記述する。ベネチアで泊まったホテルは狭かったのだけれどわたしはとても気に入った。その話と翌朝のまだ観光客が街に出歩いていない早朝散歩時のカットまでを本編で紹介することにする。(散歩後の本格的なベネチア観光については続編の7-5で紹介する予定)

余談だが、このコンテンツを作成中の帰国後の現在(4/29)、豚インフルエンザで世界は警戒レベル4の騒ぎとなっている。イタリアはまだ日本と同様、感染者はでていないが、時間の問題なのかも知れない。メキシコはもとより、カナダ・アメリカ・スペインへの渡航の制限や、ツアーの延期、キャンセルも出ていることから、わたしたちはテポドン騒ぎや地震等もあったが間隙を縫ったいい時期に旅行してきたのかも知れない。あっ、いまレベル5に上がっちゃった!(4/30)

ベネチア予備知識

ベネチア(ヴェネツィア、ヴェネーツィア、ヴェネチア、ベネツィア、ベネティア、ヴェネティア)の予備知識

「水の都」としてあまりにも有名なベネチア(Comune di Venezia)は、中世イタリアを代表する海運王国「ベネチア共和国」の首都として栄えた。ほかに別名「アドリア海の女王」「アドリア海の真珠」などをもつ。よく聞くベニス(Venice)は英語。フランス語でヴニーズ(Venise)、ドイツ語でフェネーディヒ(Venedig)と呼ばれる。

特徴は、水の都の名のごとく、運河が発達していること、また自動車が利用できないため、主な交通機関は必然的に船になる。水上路線バスの「ヴァポレット(vaporetto)」や水上タクシーの「モトスカーフィ(motoscafi)」などがある。ベネチア本島内は、自動車での移動が不可能なだけでなく自転車の使用も一部の例外を除いて禁止されている。

118もの小島から成り、礼拝堂、リアルト橋、市場に至るまで世界遺産となっている貴重なイタリアの観光資源ではあるが、地球温暖化によって海面上昇が今後加速されれば、島全体がアドリア海に水没してしまうことも懸念されている。

ベネチア生まれの歴史上人物では「東方見聞録」を残したマルコ・ポーロ(1254生まれ)がいる。ベネチア最大のサン・マルコ寺院、サン・マルコ広場のマルコとは別人、もちろんちびまる子でもない。ほかに、18世紀の音楽家、ビバルディもベネチア生まれ。

ベネチアといえばビスコンティの映画「ベニスに死す」が有名だが、観光地での疫病の発生や一見、同性愛映画ととられそうなストーリー展開など必ずしもベネチアの街としての美しさを表現したものではない。映画ではほかに、キャサリーン・ヘプバーン主演の「旅情」や「リトル・ロマンス」でもベネチアが舞台となっている。

 

ローマ広場から水上タクシーにてホテルへ                                                     

イタリア本土からベネチア島までは鉄道とそれに沿った道路が通っているが、わたしたちはバスで、リベルタ橋(ベネチア島と本土のメストレ地区とを結ぶ全長3850mの道路橋)を渡り、ベネチアの入口にあたるローマ広場(写真下)に着いた。ここから水上タクシーに乗ってホテルのある本島まで行くことになる。

この広場から運河を挟んで対岸にサンタ・ルチアという名の鉄道駅がある。鉄道でベネチアに来るときの終着駅になる。

このことを知って、わたしはあれっ?と思った。サンタ・ルチアはナポリではなく、ベネチアにあるの?

サンタ・ルチアは小学校か中学校かの音楽の時間でナポリ民謡としてわたしたちは習ったはずである。

これはどういうことだろう? なんたるちあ、というだじゃれがあるものだから、サンタルチアはサンタル・チアと誤解している人もいるかも知れないが、「聖ルチア」という意味で、サンタ・ルチアが正しい。イタリアの美しい街、ナポリを守護していると言われる聖女、Santa Lucia (聖ルチーア) の名である。聖ルチーアは、2世紀の終わり〜3世紀の初頭にイタリアはシチリア島のシラクーサという町に実在した人物で、当時のローマ帝国の下で殉教し、聖人に列せられた。ナポリの守護聖人だが、「目の神」「光の神」としてイタリアの様ざまなところに Santa Lucia の名前のついた地名や教会、通りなどがあるということだ。

したがって、ナポリのサンタ・ルチアは港の名前であり、ベネチアのサンタ・ルチアは、駅とその近くにある教会の名前ということになる。本家本元はナポリだが、いまやサンタ・ルチアはベネチアの歌と呼んでもいいくらいに浸透しているとのことだ。

さて、以下は、水上タクシー(モトスカーフィ)乗り場。

水上タクシーからの景色

水上タクシーは、タクシーというくらいだから、乗車賃は安くはないらしい。金額は調べてないので分からないが、日本のタクシーと同様、基本料金があり、一定の距離によって料金が加算されていくシステムである。初乗りが10 前後、1,000円以上かかりそうである。

1台に123人は乗れそうなので、わたしたちは35人のツアーだから3台に分かれて乗ることになった。

 

わたしはひと組の最後のほうに乗ったため、座席が船の後部となったが、そこは逆に頭上が開けており、立ち上がると進行方向の景色を眺めることができた。

 

細めの運河を抜けると、大河のような見晴らしのいい場所に出た。カナル・グランデ(大運河)である。

下の左の写真に見える橋が単一アーチの「白い巨像」と呼ばれるリアルト橋。

この橋は、13世紀にこの大運河カナル・グランデに最初に架けられた橋で、当初は木造だった。現在の石造りの橋は16世紀にダ・ポンテにより再建されたもの。長さは48m、幅22m、水面からの高さは7.5m。欄干の両脇には土産物店などが並んでいる。

ここはベネチアを紹介するためには最適の景色なのだが、あいにくと少し前から天気は、下り坂というほどではないが、曇ってきてしまった。夕刻に近づいているせいもあって、これでは、写真もいまいちである。

この曇り空は結局、翌日午後まで続いてしまったが、雨は降らずに済んだ。ガイドの話によると、ベネチアは前日が土砂降りで、ここ1週間はよくない天候だったという。

 

目的地にはとうに着いていたのだが、大運河を少し旋回するように遊覧して、再度リアルト橋に向かい、それに近い桟橋で水上タクシーは停まった。

ここから南に少し歩いてホテルに向かう。

歩くしかない。ほかに交通手段はないのだ。

でも、このベネチア本島は、ほとんど歩いて周れるほどの広さなのである。

ホテルに行く途中、まるで京都の先斗町のような小路が網の目のようになっているのを見て、なにか迷路探検のわくわくするような思いを抱いた。

 

ホテル ボンベッキアーティ                                                                

Bonvecchiati (ボンベッキアーティ) とは1回聞いただけではとても覚えられない妙な名前だが、わたしは今回の旅行で泊まったホテルではここがいちばん気に入った。

さすがベネチアングラスが特産の都市ということで、以下のロビーのシャンデリアや部屋の照明もなかなかのものだったが、わたしが気に入ったのはそのことではない。

 

シャンデリア

ロビーでチェックインを待つ。広いとはいえないむしろ狭いともいうべきロビーだが、雰囲気はいい。

ベネチアは島全体の面積が広くないから、建物の内装等効率的に設計されているのだろうと想像した。

このホテルもカードキーではなく旧式だったが、むしろここではそのほうが合っている気もした。

さて、わたしたち家族は、添乗員から2部屋のキーを渡されたのだが・・・。

ミステリアスな回廊

ルームナンバーはいずれも600番台なのだが、実は6Fではなく1Fなのだという。(ただし、イタリアでは日本で言う1F0Fとして数えるから1Fは日本での2Fにあたる)

ところがその部屋に行くためには、まずエレベーターに乗り2Fへ行かなければならない。

そして回廊を進んだ先で階段を降りてやっと到達するというのである。

これでは、迷路ではないか。

幅が60cm、奥行きが2m程度、わたしたち家族3人が乗ればそれでいっぱい、というなんとも小ぶりなエレベーターに乗り、No.2のボタンを押す。

そして、エレベーターを降りて、部屋番号表示のある→方向の通路に向かおうとしたとき、前方に見えたのが、この写真の景色。

これを初めてみた瞬間、ぞくっとした。

いいじゃない!

これだよ、これ。この不規則感。

そう。なにもホテルの廊下をまっすぐにする必要なんてないんだ。こういう発想が、日本人にはないんだよなあ。

各部屋が遠くから見渡せないほうがいいんだ。

しかし、この光景にはなにかデジャヴュを感じる。

そうだ、ファイナルファンタジーのトリックダンジョンだ。

また、映画サスペリアUの1シーンにもなにか似ている。そういえばサスペリアはイタリア映画だ。

とにかくわたしは、すっかりこの回廊が気に入ってしまった。

 

メイン観光前の早朝散歩                                                               

夜明けが待ちどおしくて5時過ぎには散歩の準備。外にでられるようになったのはようやく6時半ころ。

でも、空は、曇りか。大運河にでると、川霧というか運河霧と呼べばいいのかうっすらと立ち込めている。

このすっきりしない空は午後まで続いた。またベネチアを発つ翌朝も霧だったが、だいたい霧は晴れるといい天気になるのが相場。その通りになった。

とはいうものの、ガイドのついたメイン観光ではなかなか思うように写真が撮れないので、こうした早朝の時間が貴重なのだが、この霧と曇天ではねえ。

前日船着場を南下してホテルに着いたのだが、この後、メイン観光でさらに南のサン・マルコ広場等へ行くので、散歩は昨日の船着場へ戻ってリアルト橋など見てこようと思ったのだが・・・。方向音痴のくせに地図ももたずに出てきたわたしは、すぐにまちがえて西のほうに足を向けてしまう。どうも、昨日きたときの風景とちがうので、迷子になってはと、すぐ元来た道を慎重に戻り、何度か確かめながらようやく船着場方面に向かうことができた。なんのことはない、ホテルを出た直後の進路をまちがえていたのである。おかげで、暑くもない温度なのにけっこう汗をかいてしまった。

特筆すべきは、早朝だと、ほとんど人通りがないこと。

そのことは、そのとき当たり前のように思っていたが、午後からの山のような人出を考えると、この小さな島のどこにこんなにたくさんの人が隠れていたのだろうと、いまさらながらすごいギャップを感じる。

以下、見た景色をとりとめもなく・・・。(このイタリア紀行で掲載した画像はほとんどすべてがクリックすると800×533サイズに拡大できます)

(写真)

ホテル近く、大使館?、小ホテルも点在、小運河の景色、灯りのついた店も、こんな店も早朝に、その先は大運河、大運河の船着場に、霧のリアルト橋、対岸風景、石段のある建物、船着場とリアルト橋、橋と反対、西向きに、小運河と建物、公衆電話、もう客?、霧がさらに濃く、後で乗るゴンドラ、赤の建物、確か警察署、戻り道、ンクは何の花?、マニン広場の一角か、獣はガーゴイル?、抜け道?、珍しいポスター、ブティック、通勤客もそろそろ、この器械は?、ホテル近くの運河

さて、無事ホテルに戻って朝食をとれば、いよいよベネチアメイン観光である。(イタリア紀行Xに続く)

(09/04/09撮影=現地時間)


 

じぶん探訪 その7-5.  イタリア紀行X 「晴れてさらに輝くベネチア」           

410日(月)

ベネチア観光

ベネチアのメイン観光もミラノと同様、半日だけであり、ホテルの近くの乗り場から30分程度のゴンドラ遊覧と、サン・マルコ広場に出て、ドゥカーレ宮殿とサン・マルコ寺院を見学すればほぼ終了。ガラス工房を少し見て、お決まりのベネチアングラスショッピングの後、昼食で解散。午後は自由行動となる。

自由行動といっても、昼食を終えたのが2時を過ぎており、とくに行き先を決めてないわたしたちは、とりとめもなくまたサン・マルコ広場に戻って土産物を選んだりしているとすぐに日が暮れかかってきた。前日より、夕食の店選びに悩んでいたわたしたちは、ほかの多数のツアー客と同様、結局、添乗員の案内する店に行くことになる。

少し慣れてきたいまは、あのときは自分たちでどこか探していくべきだったかなと思うが、あとの祭りではある。夕食が済めば、夜道はもとより地理に不案内なわたしたちは寄り道もできずそのままホテルに戻ることになり、せっかくの自由時間があった

といっても、新規にどこかを見て歩くということは結果としてはほとんどできずじまいに終わった。

でも、初めて体験したベネチアは素晴らしく、ちょっと物足りなさそうな娘はともかく、少なくともわたしたち夫婦はこれで十分満足ではあった。ベネチアは、時間の経過とともにますます美しく変貌していった。それは、必ずしも曇り空が晴れてきたからという理由だけではないような気がしている。

 

ゴンドラ遊覧                                     (観光施設)                      

ゴンドラとは、ベネチアの伝統的な手漕ぎのボートのこと。ゴンドリエーレ(船頭)が舳先に向かって立ち、片方だけのオール()で押す力によって推進する。わたしたちはツアーに含まれていたので、56人乗れる乗り合いタイプのゴンドラで6艘に分かれて乗ったが、普通は座席ももう少し豪華で並んで座れる2人乗りのものもあるようだ。島の各所に乗り場(緑の看板で「GONDOLE」と書いてある)があり、ゴンドリエールに声をかけて乗るということらしい。乗船料金(交渉制)はちょっと高めで50分程度で62100€、1万円前後は必要だが、時間によりいろいろ行きたいルートを選べるようだ。また、サングラス、スキンヘッドの一見、その筋かなと思うような風貌のお兄さんが、わたしたちが聞いたことのある「帰れソレントへ」「フニクリ・フニクラ」「オー・ソーレ・ミオ」「サンタ・ルチア」などのカンツォーネを何曲か唄ってくれる。

これはチップとして5 程度必要。わたしたちのツアーにも唄がついていた。ゴンドラ遊覧は、スライドショーで、わたしの目線で同じ体験をしていただこう。(音楽はつけないが・・・)

 

サン・マルコ広場とドゥカーレ宮殿                        観光施設                          

サン・マルコ広場                                    観光施設                       

水の都ベネチアのシンボルともいっていいのが、島の南に東西に広がる広大なサン・マルコ広場(Piazza San Marco)。ベネチアの広場は一般にカンポ(campo)と呼ばれるが、サン・マルコ広場は別格でピアッツァ(piazza) と呼ぶ。サン・マルコの名は、ベネチアの守護聖人である福音記者マルコに由来している。新約聖書の「マルコによる福音書」の著者とされる人物である。

18世紀にベネチアに侵攻してきたナポレオンが「世界一美しい広場」と讃えたサン・マルコ広場。床には大理石の敷石が残っているが、高潮のときにはアドリア海の水位が上がってここが水浸しになることもあるという。そのときは水が引いたあとは結構汚れたりするものかななどと想像。

回廊のある建物に囲まれた広場の正面()には、高さ96mの大鐘楼を前に壮麗なサン・マルコ寺院、その右側にはベネチア共和国の政治の中枢だったドゥカーレ宮殿などがあり、ベネチアの観光スポットがここに集約されている。

ゴンドラ遊覧のあと、ここへは、ホテルの南を400500m歩けば、広場への入口が、回廊のある建物の下に見えてくる。

回廊のある建物。新旧の行政館

北からの入口のある回廊の建物は旧行政館と呼ばれ、12世紀に建てられたもので当時の行政官の執務室や事務所、住居などが入っていた。現在、その1Fには老舗のカフェや高級ブランド店が立ち並んでいるが、建物の前の広場には楽団演奏付きの野外レストラン(写真上)もある。

広場には土産物の露店もあり観光客でにぎわう。わたしたちも午後、再度ここにきてTシャツなど買ったりした。写真右上は外国ではありがちな風景だが今回の旅行ではこんなシーンはこれだけ。いまはむしろ渋谷あたりのほうが多いのかもしれない。イタ

リアは歴史を残しているが、日本は変わった。

広場を挟んでその真向かいにあるのが17世紀に増築された新行政館で、その1Fも同様に回廊となっていて各種の店が並んでいる。(写真左)この回廊の建物に向かって左にはこれから紹介する大鐘楼やサン・マルコ寺院などがあるわけだが、では右はどうなっているのかというと・・・。

実は撮り逃してしまったのだが、同様に回廊のある建物があり、コッソーレ博物館となっている。1418世紀のベネチアの歴史、風俗、女性のファッションなど、ほかに絵画など展示・紹介してあるということだが、この中は見学していない。

大鐘楼

 16世紀初頭に建設。見張り台と灯台の役割をもっていたが、1902年にいちど崩壊し、10年後に再建されている。現在はエレベーターのある見晴らし台でビュースポットとなっているが、観覧券を持っていながらあまりスケジュールに余裕のないわたしたちのツアーではここはパス。鐘楼の鐘は1902年の崩壊時に倒壊を免れて、いまもベネチア中に鳴り響いているということだが、わたしは聞いていないね。写真に写っている棒のようなものは、脇のサン・マルコ寺院の前に立てられているポール。また、鐘楼の天辺には、風向きによって回転する黄金の天使像「ガブリエレ大天使像」がのせられている。が、ちょっと写真では見づらい。

サン・マルコ寺院

ベネチア商人によってアレキサンドリアから運ばれた守護聖人、聖マルコの遺骸を安置するために建てられた教会。建設は828年だが、増築などされて11世紀に再建され現在に至っている。東方イスラムのモスクを思わせる5つのドーム屋根や各所の黄金のモザイクなど、海運王国ベネチアの繁栄がしのばれる。

(しかし、撮影は中途半端。建物の頂上には聖マルコ像があるということだが、ちょうど切れて撮れているし、もっと全容を写さないとねえ。これは、あとで再撮影したものを掲載)

上の写真を補って、サン・マルコ寺院の左方を撮ったというより、これはイギリス人の観光客を撮ったもの。

ベネチアは、日本人の団体ばかりではないということをわたしはいいたかったわけだ。それにしても、チェックのタータンが分かりやすい。こんなにも愛着があるわけ?

でもイギリス人はやはり紳士的というのは当たっているように思う。それに対し、アメリカ人は陽気だけど、マナーがよくないね。今回も、ローマのホテルロビーではうるさいことうるさいこと。昔の日本人のおじさん団体以上じゃあないかなあ。

これは寺院の右方、というほどでもないか。2つ前の写真のもう少し下方のカット。

見学用の入口にたくさんの外国人観光客が並んでいる。これは10時半ころだが、このころから観光客がどんどん増えだした。したがって見学するための順番まちの時間が結構かかることになる。寺院内には、奥のドゥカーレ宮殿から先に見たあとで寄ることになるのだが、ドゥカーレ宮殿内も混雑して時間が押してしまい、さらに寺院ではちょうどイースター(復活祭)の時期にあたりミサが催されているせいもあって混雑し、見所をいくつかカットされることになる。しかも、撮影禁止の箇所が多いため、この紀行では紹介するところが少なくならざるを得ない。

混雑といえば、日本語が上手なイタリア人女性ガイドがスリが多いといっていた。後ほど寺院に入るために並んでいたとき、彼女がわたしの目の前で、ある男を指し、「カメラやバッグなど何ももたない手ぶらのこの人が怪しいですね」と指摘。確かに彼は入口で追い払われるように締め出され、また改めて後尾から列に並びなおす、という行為を繰り返してガードの甘い観光客を狙っていたようだ。

ムーア人の時計塔

寺院に向かって左隣、旧行政館の建物奥にあるのが時計塔。

コンドゥイッチにより15世紀に建てられたもので、屋上には、2体のムーア人の像があり、鐘を鳴らしているということだ。写真では屋上の手すりの陰になって見えにくい。その下に有翼の獅子像がある。これは、広場の随所にあるが、聖マルコと街のシンボルでもあるということだ。→ ということは、この日の早朝散歩で見た「ガーゴイル像か?」(イタリア紀行Wで紹介) というのはこの有翼の獅子像なのかも知れない。なお、この時計塔は、リアルト橋方面への出口の目印ともなっている。

小広場と2本の円柱

大鐘楼の右手、ドゥカーレ宮殿の前は小広場と呼ばれ、共和国時代は「海の玄関口」としてにぎわった。奥の海から見て、入口に立つ2本の円柱の頂上には、左に守護聖人であるテオ・ドール像、右に街の象徴でもある有翼の獅子像が立っている。(陸地から見たこの写真では左が獅子像)

  海のほうにはなにか幻想的な建物が見える。もっと近づくとともにいろいろ撮ってみたかったが、観客はさらに増えてきて、次の場所への移動をガイドから催促されるハメとなる。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会

前後するが、上記のアドリア海に浮かぶ幻想的な建物を、ドゥカーレ宮殿を見学中に回廊から撮影することができた。ここはコース外なので、ガイドからの説明はなく、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会という名前であることは後で調べて分かったこと。別名「海辺の貴婦人」とも呼ばれている。なるほどその名にふさわしい優雅なたたずまい。天候がよければもっと美しくとも思うが、このほうが意外と雰囲気があるかも知れない。1630年に完成。

 

ドゥカーレ宮殿                                         (観光施設)               

さて、本日メインのドゥカーレ宮殿の見学。広場のいちばん奥の建物である。

ドゥカーレ宮殿は、ベネチア共和国の中枢の建物で、総督の住居としても使用された。9世紀に創建され、14世紀にはゴシック様式に改築、16世紀にはベネチア派の画家たちが壁画や天井画を華麗に描いた。法廷など撮影禁止の箇所が多い。記憶が錯綜しているが、ここの入場も混雑していてスムーズではなかったような気がする。ガイドは午後のスケジュールが詰まっているのか、あるいはいちばん後の定番のベネチアングラス・ショッピングに遅れさせまいとしているのか、後の寺院での混雑時も含め、相当あせっているようだった。結果、当初予定していた案内スポットをいくつかカットしてしまうのだが、ショッピング時間のほうを少なくするということはないからなあ。だれも買わないような店でもそうなんだから困ってしまう。

[美しい回廊と黄金階段]

左上は宮殿2Fの美しい回廊。ここから、天井が金のモザイクの階段(黄金階段)をのぼり、宮殿のさらに奥に行く。黄金階段は、建築家サンソビーノ作。[世界最大の油絵がある大評議会の間]

絵画や天井画が描かれた部屋を見る。上右が、正面にティントレットの「天国」が描かれている大評議会の間(Sala di Maggior Consiglio)。ここは撮影禁止、だったと思う。

さて、ここから、裁判室(法廷)や、牢獄、拷問部屋、独房などの紹介となるのだが、これらはほとんどが撮影禁止であるとともに、独房などは時間がなくて見ることができなかった。(あとで妻に聞くと、ツアー戦列を離れ、独房を見てきたという勇士がいたらしい)

また、溜め息の橋というドゥカーレ宮殿の尋問室と牢獄を結ぶ役割りを果たした橋が、宮殿東側の小運河に架かっているのだが、これは海側のバリア橋やゴンドラなどの船からでないとうまく撮影できないようだ。

橋の名は、刑に処せられる前に、橋に設けられた石の窓の外からベネチアの美しい景色を見られるのは最後、ということで囚人が溜め息をつくというところから、19世紀にジョージ・バイロンによって名づけられた。

ここから見た海側の景色が、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の写真だったかどうかは記憶があいまいだが、囚人の見た景色はその反対側の街の方角だっただろうか。

この後、宮殿内の中庭を経由して、その間にあるギリシャ神話の神々の彫像などを見ながら、いったん外にでて、さきほどの長蛇の列のサン・マルコ寺院内への見学に移る。

  左上は2Fの回廊のバルコニーから中庭を見下ろしたところ。

彫像の背後から中庭奥に宮殿入口に並ぶの人の列が見える(右上)。左は、中庭に降りて2つの彫像を正面から見たところ宮殿から出ると、青空が・・・

ドゥカーレ宮殿から出ると、ようやく待ち望んだ青空が広がり始めた。時刻は11時半。昨夕18時ころからの曇天がやっと解消される。さきほどの時計塔の頂上の2人のムーア人を今度は写すことができた(左上)。右上は、時計塔の右横(サン・マルコ広場の北東)、リアルト橋への出口に通じている。青空とともに増えていく観光客

  寺院の中はほとんど撮影不可

さて、サン・マルコ寺院の見学だが、これはほとんどが撮影不可。さらに、内部ではミサが催されていたことや、観光客がどんどん増えてきたため、入口で入場制限が行なわれていた。その係員が頑としてわたしたちの一行を2Fへ通じる1Fのコーナーへ通そうとしないので、ガイドは「どうしてなんでしょう?わたしたちは優先券を持っているのに!1Fの無料で入れるところは空いているのに、そこへすら通そうとしないのはなぜなんでしょう?」と憤慨、苛立っていた。わたしは、もしかして人種差別かな、とちょっとその係員をにらんだが・・・。

やっと、入ることができ、2Fへの登り階段を見たとき、「ああ、これでは仕方ないな」と思った。細くて急な階段。わたしのようなデブだと降りてくる人とはすれちがうことも厳しいような按配。おそらく2Fも観光客であふれているのだろう。係員は、危険のないように降りてくる人数を数えながら一定数の人数を通していたのだろうと思った。なお、寺院正面の美しい画はもちろんすべてモザイクである。

2Fに登ると、バルコニーが寺院の周囲を取り囲んでいて、そこからはサン・マルコ広場等が一望できる。正午には雲はすっかり消え、快晴となった。

  ここからも時計塔のムーア人が見える。

手前の馬の銅像(現在置かれているものはレプリカ)は計4頭いるが、ちょうど寺院の正面入口の上に置かれている。これは、もともとコンスタンティノポリスの競馬場にあったもので、1204年の第4回十字軍のときに略奪され、ここに運ばれたという。せっかくだから、寺院2Fバルコニーから撮った大鐘楼の写真も掲載。

これは、大鐘楼へ登るために入口に並んでいる人々。この入場料も払い込み済みなのだが、時間がなくて登れないのは前述。エレベーターならいいけど階段ではちょっとね。

ベネチア3泊ぐらいあれば・・・。

さて、寺院内ではほかに金と宝石等で飾られたきらびやかな装飾や、至宝の数かずを見たわけだが、残念ながら撮影禁止でここに掲載するわけにはいかない。しかし、混雑のため時間不足で、聖マルコの遺骸が安置されている場所等々は撮影の可否以前に見学そのものがコースからカットされてしまった。わたしはさほどではないが、妻はちょっと残念そうである。 写真はここの入場チケットの半券の表()と裏()Musei Civici Veneziani とはベネチア市民博物館。

以上で、本日のガイド付き観光はほぼ終了で、以下は、ショッピングと食事、自由行動となる。あっと、ガラス工房の見学があったが、まあこればショッピングの前のイベントである。

 

ベネチアングラス工房、ラグーナ・ムラノ・グラス                        (観光施設)                  

サン・マルコ広場からリアルト橋方面の出口を出て、まっすぐ西に向かうと、グラス工房へ行くための専用の橋が前方に見えてくる(写真左)

橋を渡るとすぐがラグーナ・ムラノ・グラスと呼ばれるグラス工房だ。ここで、グラス造りの実際を見学したあと、ショッピングとなるのだが、支配人らしき中年のイタリア紳士が、流暢な日本語でベネチアングラスの商品説明をしてくれる。それは、大道芸人さながらのユーモアを交えた上手な語りで、観客を笑わせるテクニックはなかなかのものがあった。商品もさすがに700年の歴史があるイタリアの伝統芸術というだけに素晴らしいものだが、いちばん高価なものでも数十万円程度と、思ったほど高価ではない。もちろん、だからといってそれを買う気はない。というより、立派過ぎてとてもわが家の調度には合わないというのが真実のところだ。豪華な応接間があり賓客が絶えない家なら妥当な商品ではある。それならばと紳士はだんだんと安価なグラスを紹介していくが、とくに欲しいというものがない。彩色はいいのだが、わたしは薄いグラスが好きでその観点で選ぶから、そういう意味ではベネチアングラスへのこだわりはない。

グラス作りの歴史は古く紀元前4千年に遡る。フェニキヤ人がシリコンとソーダを混合して作ったのが始まりで、後にエジプト人が吹きガラスや色ガラスなどの技術を発達させ、ローマ帝国時代に高度な技術が花開く。当時、グラス製造の中心地アクイレアは蛮族の侵入によりその職人たちがアドリア海岸を南下、ついにはベネチア本島から北東約1.5kmにあるムラノ島に定着した。ベネチアングラスをムラノグラスとも呼ぶのはこのため。ムラノとは日本人の村野さんが語源だと面白いがまさかね。

上は、グラス工房前の橋から撮った風景。やっぱり太陽が出たときのほうが美しいなあ。右は、2人乗りのゴンドラ。中年でも外人はさまになるね。

昼食と自由行動昼食はミラノより数段上

グラスショッピングを終えて昼食へ。この時点で、時刻はもう13:15を過ぎている。昼食を終えればおそらく14:30ころになるだろう(実際は15時過ぎとなった)。ここまでが、ツアーの団体行動。それから夕食のホテルでの待ち合わせ時間は18:00だから、自由行動は、正味3時間半である。左は、レストランまでの途中。もう細い通りは人でいっぱいだ。

ここのレストランの味はまあまあ。メニューは、イカ墨のリングイネ、クルマエビと平目のグリル、サラダ、ティラミスだが、欲をいえば、食べたことのないものにしてほしかった。ずいぶん歩いてのどが渇いたのでビールがうまい!飲み物は各自別料金で、ビールは8 (1,000円程度)と、ちょっと高い観光地価格。妻と娘がオーダーした「水」は5€、まあ仕方ないね。ちなみに、イタリアのコーヒーは濃い目の味。わたしはこのほうが好き、というよりアメリカンをいまだかつておいしいと思ったことはない。アメリカンばかり一日に何杯も飲んでコーヒー党というのはちょっとちがうのではないか。

昼食と自由行動

自由行動は、サン・マルコ広場に逆戻り

今回のツアーでは、少ないがこれが初めての自由行動となる。まったくその計画を立てていなかったわたしたち(少なくともわたしと妻)は今後の行動について少し意見が分かれる。

リアルト橋のほうに行きたいと娘がいい歩き出したのだが、わたしは現在地と方角がはっきり分からず、どうも

漫然と歩くのが気持ちが悪いので、いったんサン・マルコ広場に戻ることを提案。

サン・マルコ広場についてようやく朝の散歩のおかげで土地勘が出てきたわたしは、さあと思ったが、妻はここで少し買物がしたいといい、娘はやはりリアルト橋方面へ行きたいという。海外旅行が初めての娘に単独行動をさせるのはちょっと気になるところだったが、では、5時までにホテルに戻るという約束で行かせることにした。

ツアー最終日のローマでも同様に自由時間があり、娘を単独行動させることになったが、ちゃんと予定の時間に戻れるか心配した。それらはすべてが杞憂に終わったわけだが、海外では何があるか分からないのでこれくらい心配してもしすぎではないと思う。イタリア語は無論、英語も満足に話せないのだから。それと、必要ないだろうとあえて海外用の携帯を用意しなかったが、こうした自由行動で家族が分かれて行動するときにはあったほうが便利だと思った。もし、トラブルがあったときに手の施しようがない。娘は、割とのんきに構えていたようだが、できれば単独行動は今後の海外旅行ではやめてほしいと願っている。ということで、ここからしばらくは妻とわたしだけの行動になる。

サン・マルコ寺院全景と頂上の聖マルコ像

  ようやく寺院の全景と頂上の聖マルコ像、その下の有翼の獅子像を撮ることができた。

いちだんと明るくにぎやかなサン・マルコ広場  旧行政館1F回廊でショッピング

ああでもない、こうでもないで、行ったり来たり。足が痛いのに買物時だけは妻は元気。もう時間がないよ。

娘と合流しホテル近辺を散策

ホテルすぐ横の運河も朝の散歩時とは少しちがう。  朝と同様、人通りのない小路も。ただしもう17:30 市場発見。朝のマニン広場と同じ場所かも。 いろんな食材がいっぱい。どれを選ぶ?  ウィンドウショッピングもまた楽しい。 こんな演奏も。フルートというのが日本とは少し・・・。

夕食はリアルト橋近くの居酒屋風レストラン

7時にホテルに集合して夕食に。

添乗員のお勧めのリストランテは、はからずもリアルト橋を渡ってしばらくの店。おかげで、橋からのカナル・グランデ大運河の夕景などを撮ることができた。 夕食がこの橋の近辺でなかったら、この風景は2度と見られなかったかもしれない。そういう意味では添乗員に感謝。

レストランは、新橋の一杯飲み屋の雰囲気。一品一品が大盛りでとても1人では食べきれない量だが、その分、料理の質は荒削り。しかも勘定が思ったより高い。

わたしは概算でほぼ正確な値段を計算できるのだが、サービス料を加えたとしても2030 ほどちがうように思う。ほかの客と分け合って食べたせいもあって、他の人の注文したものもついていたのかも知れない。まあ、いいか。

ベネチアは本日までで、明日はフィレンツェへ。

いい忘れたが、ベネチアは、運河のなかに大量の丸太の杭が打ち込まれている。それは建物の土台となっているようで、ベネチアを逆さまにすると森ができるとまでいわれている。運河の岸でよく見かけたが、船の桟橋程度に思っていた。そのことも驚異だが、この本土から4kmも離れた島に、こんな大掛かりな世界遺産の数かずを建造する、その莫大なエネルギーに驚嘆する。石材にしろ何にしろもともと島にあった資材はむしろほんの一部だろう。莫大なエネルギーとは、莫大な権力であり、莫大な奴隷たちの血と汗ともいえよう。

あと、これはイタリア全土にいえることだろうが、各観光地では、何かしら歴史的建造物の補修工事が行なわれている。みなスケールの大きいものなので、1ヵ所の補修が終わるころに同じ建造物の別の箇所を補修しなくてはならなくなるらしい。したがって、美しい建造物を無キズのままで撮影することは難しいかも知れない。サン・マルコ寺院でもミラノのドゥオーモでも、工事がいろいろ行なわれていた。(イタリア紀行Y〜Xに続くもー省略)

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