利根町の歴史

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赤松宗旦著「利根川図志」に見る近世の利根町概観 赤松宗旦と「利根川図志」 「利根川図志」著者年譜

赤松宗旦と「利根川図志」

利根川にまつわる歴史、伝説・地理・物産等を調査し記録にとどめよ うと思っていたのは初代の赤松宗旦であった。彼は遠州(愛知県)中 村に生れ、江戸へ出て医術を学び、諸国遍歴のあと下総布川に至り、 この地で一子定次郎をもうけた。間もなく江戸千住に移り住み、文化 10年(1813)に世を去っている。著書に「家方徴」2巻がある。

後年「利根川図志」を著したのはこの定次郎、すなわち2代目の宗旦義 知で、父を失った時は8歳の幼年であった。父の没後は母の生家(印 旛郡吉高村)に引きとられ、その地で前田宗aに師事し、医術や漢学 を学ぶこと15年、天保9年(1838)33歳の折布川へ帰り医業を開 き、かたわら地誌研究に打ちこみ、安政5年(1858)に「利根川図志 」(全6巻)を完成し、世におくり出したのである。

父がどれほどの資料を残していたかは不明だが、彼は文献の収集に、 実地踏査に相当の日時をついやし、金銭を投じている。いうならば医 業は生計がたてばよい程度とし、生涯を利根川研究にかけてしまった のである。

これほどまで宗旦を利根川に結びつけてしまったのは一体なんであっ たろう。父の遺志もさることながら、川とそこに住む人々との深いか かわり合いが彼をとりこにし、あくなき探索へかりたてていったもの と思われる。 (以下略)(利根町史第1巻 宮本和也氏筆より)

・・では「利根川図志」とは一体どのような内容の本であるかについ て、地元神主の讃辞と柳田國男先生の解題(抜粋)を上げて見ました 。・・

「利根川図志」の序文には「刀根川図志はしふみ」として印旛郡吉田 の宗像神社神主香取正文という人が、その内容と共に讃辞を贈ってい るが、分かり易く書かれた、津本信博著「利根川図志原本現代訳」か らその部分を下記のとおり抜粋させて頂きました。

この日本の国の内に、ありとあらゆる山や川のようす、ありさまを書 き記した書籍は昔からたいへん多いけれど、私の友人である赤松宗旦 氏がお書きになられたこの「利根川図志」ほどくわしいものは、とて もほかにはあるまいと思われる。そういうわけで、その利根川の下流 よりさかのぼって、川の左右に沿って存在する村里はもちろんのこと 、神社の古い伝説や寺の縁起、あるいは昔より歌によく詠まれた名所 、または古戦場の跡や大規模な城の砦の類にいたるまで、すべてをそ の根源までさかのぼり、あたかも岩根をつたい、したたる露のしずく ほどももらすことなく、多くの歳月を要して努力し、あちらこちらと 実地踏査して、(中略)いろいろと問いたずね、またそのうえに古書 なども調べ、古代からの代々の知識人ですらわからなかった利根川に 関することを調べまとめあげた・・・(中略)―の版木のいたるとこ ろに刻みつけられた功績は、1500年もの長い年月を重ねても、こ の利根川の流れとともに絶えることはない。

下総の国にある印旛沼のほとりの吉田の里にある宗像神社に
      お仕え申し上げている神主、安芸の守、従五位下の香取正文

民俗学の父柳田國男が利根町布川での少年時代、いわゆる第2濫読期 に、大いなる好奇心を以て、最初に読んだ本がこの「利根川図志」で あった。と同書校訂本(岩波文庫)巻頭の解題で述べ、そして同書の 形成過程から布川の様子、出版事情まで事細かく言及しております。

その一節には次のように書かれております。
此書巻頭の全利根川図は、遠く藤原山間の水源に筆を起こして、沿岸 数十里の地名を、はぼ誤謬無く注記して居る。一部は既存の資料を綴 り合せることが出来たにしても、なほ是を正確にするが為に費を投じ 人を派して、其復命を待ったと伝えて居るのは事実であろう。あの當 時としては誠に容易ならぬ辛労と言はなけらばならぬ。その最初の目 的が何に在ったかは別として、とにかくに他日親しく其地を踏査し、 此図と匹敵するやうな地誌の書を遺さうといふ、志のあったことだけ は推察し得られる。それがいつの間にか年を取り、又新たな色々の感 慨の錯綜するものがあって、区域を川船の上下する中流以東に限り、 小さな完成を急ぐことになったのは、この何か意味ありげな序文の言 葉、及び僅か四年の後に世を去ったといふことなどと思い合せて、寧 ろ我々の同情せずには居られない点である。

そして、次の様にも言及
医人は昔から学問の自由を羨まれて居たが、それも大都の中に住むも ののことで、地方に居て著述を世に留めようとすれば、其不利はやは り甚だしかった。「北越雪譜」といふ本が時好に投じたことは、可な り赤松氏を刺激して居るやうに見えるが、是は代作に近く、又たしか な引受人が江戸にあったらしい。之に反して「利根川図志」の方は、 最初から素人の獨力の業であった。・・(と評しており、いかに困難な 著作だったかが伺います。)

・・参考のために著者の生きた時代はどのような時代だったか、年譜 と周囲環境とを対比させました。幕府の手賀沼や印旛沼の開鑿政策。 そして、この時代大活躍をした伊能忠敬や間宮林蔵の家までもが、利 根町から五里十里以内であったこと等も興味を引くところではありま す。・・

「利根川図志」著者年譜

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