利根町の歴史

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赤松宗旦著「利根川図志」に見る近世の利根町概観 赤松宗旦と「利根川図志」 「利根川図志」著者年譜

鬼怒川とホトトギス

  利根町史編さん委員芦原修二著

この話は、近世初頭の利根川東遷以前まで、利根町の立木、大房、押戸地区の北側を
鬼怒川が流れていた様子が描かれております。故に利根町の歴史の欄に納めました。

利根町の大房から、竜ヶ崎の方バ見ると、田んぼがずうっとつづいていっぺ やね。この田んぼの真ん中を境にして北が常陸の国で、南が下総の国だ。昔はここに鬼怒川が流れておったんだと。 立木の明神様(蛟もう神社)の奥ノ宮さ行って、台のはずれから東の方バ見っと、鹿島の海まで田んぼが続いて いんのが見えっぺね。ここは昔、香取の海といわれたところで、海だったんだと。そういう時が今から3千年 ぐらいめいまでつづいていて、水もしょっぱくてナ、カメに汲んで煮つめれば塩がとれた。

昔、といっても、今から三十年ぐれいめいのこったけど、東文間小学校の今 の正門近くに井戸が二本掘ってあってな、どっちの水もしょっぱかったんだ 。なかでもでも東側の井戸はしょっぱくてナ、何にも使えなかった。大昔の 海水が地面にしみこんで、そのまま地下に残っていたんだと。

立木の笠貫沼のあるところは、(笠貫沼近辺の水田風景)鬼怒川の川口ってわけでよ。ここんとこでは、 布川の台地の後ろを流れていた川も入り込んでいてナ、鬼怒川の水が増えっと、さがさに水が流れたらしいよ。 そんで昔の本見っと、「逆川口」と書いてあるんだ。この逆川のことを文巻川ともいってたらしくてナ、 「みずぐき(水茎)の書き流せども流れぬは文巻川のいえばなるべし」という歌が昔から語り伝えてきてんだよ。 水茎というのは筆のこったネ。

そしてさ、蛟もう神社(立木)のある高台は、北には鬼怒川、南は文巻川と水を分けるようなかたちをしていっぺね。だからこの高台を 水分(みくまり)山っていうんだ。この山にもむかしから語り伝えられてきた歌があるんだよ。

「あずまなる水分山のほととぎすわたりかけたかかけたかと鳴く」ってね。ほととぎすは、いまでは「特許許可局」と 鳴いているんだといわれていっけれども、昔の人には「ワタリカケタカ、カケタカ」って聞こえたんだっぺねえ。 鳥や虫のこえを、人間の言葉におきかえて聞くことを「ききなし」っていうんだけどもよ。利根町でも、押戸の 王子神社近くでなら、五月のはじめに一週間ぐれえの間、ホトトギスの声が聞こえるって話しだ。   以上


押戸地区(1)古代街道の船着き場

広報とね第231号利根町の歴史散歩(51)より

遺跡や伝説から考えると、押戸地区はたいへん古くから街道の要地(鎌倉幕府が軍事上の交通路として「押手の船津」まで、 鎌倉街道を通しました。)として賑わっていたようです。しかし、地元に記録が残っていないのでその歴史は残念ながら はっきりしません。

須賀遺跡について
押戸の「戸」は、舟戸、古戸などと同じように、船着き場の「津」を意味しています。しかして、鎌倉時代に、 「押手」といったらしいことも意味がありそうです。押し手も押しと(人)も同じ意味です。船津であったころに 押戸の人たちが住んでいたとみられる遺跡が、もとの文間村役場の付近にあります。ここは、文間台丘の裾にでき た砂州で、須賀と呼ばれています。
今から、およそ三千年ぐらい前まで、文間や布川台の周辺は古東京湾といわれている海でした。こらがやがて水位が下り、 利根町と竜ヶ崎の間は川になります。この川が古代の鬼怒川です。このように水位が下り はじめたころ台地裾の砂州に住んだ人があって、その生活の跡がこの遺跡です。

どんどん水位が下って、砂州が広くなると、九十九里浜がそうであったように船は沖へ押し出さなければなりません。 「押手」という鎌倉時代の地名はそういう押戸地域住民の先祖たちがしていた生活を想像させるものです。本来の 船着き場は、王子神社のある高台の端であったとか、根本寺の脇であったといわています。

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