蛟もう神社

神社の写真

文間の明神と称し大字立木にあり二柱にて両社あり、東なるを奥の宮と云ひ祭式祀の初めりしは交霊天皇三年の御時なり、 当時は水神、罔象女神(ミツハノメノミコト)一神なりしを、文武天皇二年酉正月廿五日、土神、 埴山姫神(ハニヤマヒメノミコト)を合祀す、神号を安田明神と云ふ。(北相馬郡誌より)

立木の蛟もう神社の「夏祭り」は、豊饒を祈る田植えの神事で、旧 6月15日に行われます。また「例大祭」は旧9月14日から15 日にかけて行われます。奥の宮で行われる「湯立て」(豊凶を占う )「御衣焚き」(古い神衣を茅と眞菰の大松明に納め、御神木の所 に運んで焼く)といった古来の神事が伝えられています。この日は 同神社の神馬と鹿島神宮の神鹿との交歓のある日として、「ばかま ち」ともよばれています。(町広報誌より)

 ばかまち
蛟もう神社例大祭の俗称である。同社のもっとも重要な大祭で、上 述の神事が伝えられている。ここでは、民間の伝承や、風俗を中心 に述べておく。

「ばかまち」の名の由来は二通り語り伝えられている。
一つは上述で、もう一つは、この祭りの習俗として、昭和初期頃ま で色こく残されていた「かがい」にまつわるものである。 それによれば、この日男女が祭りの庭で、恋の思いを相手に伝える ことが許され、心が通じれば神社の森で結ばれることも暗黙の了解 事項になっていた。

若い男女は、意中の人に会えることを願い、ついずるずると居残る ことになる。居残ってもついに、思いを遂げることなく朝を迎える みじめをみないため、「行ってバカ、行かぬバカ。途中で帰るのが 利口のバカマチ」だというのである。

この風習については、「万葉集」に高橋虫麿が筑波山での「かがい 」のようすを歌にして残し、また、「常陸国風土記」にはロマンチ ックな少年、少女の恋物語が記録されている。

蛟もう神社のバカマチでも、これに関して興味深い習俗を残してい た。この祭りの夜、男女ができあうのは、まことにおめでたいこと である。したがって、もし運が悪く、思いが遂げられなかったにし ろ、いかにも思いを遂げたように、神社の杜の中に下帯や腰巻きを 落としてくる。するとそれが厄落としになって、よい一年をおくれ るというのである。

また昭和20年代ごろまでの、まだこのバカマチがきわめて盛んで、 人出も多かった時代までは、境内にあふれるように並んだ夜店が、 真夜中がくると、一斉に店の明りを消して暗くするのが習わしだっ た。それは、その暗い時間に、恥ずかしがって容易に思いを遂げら れないでいた臆病な若者たちに手を握ったりするチャンスを与えて やろうという親心だった。 (利根町史4巻より)

(筆者)10数年前になろうかNHK大河ドラマ平将門でこの「かがい 」のシーンが有りました。公民館の学習で筑波山腹を訪れ似通った 風景を感じました。この辺・茨城南部の風習だったのでしょう。 (1998.12.20記)

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