布川琴平神社の奉納相撲

布川琴平神社の奉納相撲は、寛政7年(1795)からはじめられた。当 時の布川は、利根川の水上交通がもっとも繁栄した頃であって布川町 民の意気、大いに上がっていたものと推察できる。当初は、江戸から 両大関(当時は大関が最高位)はじめ多数の花形力士を招待し、木戸 銭なしで見せたとある。

利根川図志の著者赤松宗旦の安政三年の記録では、「八月九日今日布 川の金毘羅角力地どり。明日本角力。金ぴら角力は年寄伊勢海の懸か り。当年は式守幸蔵と云行司来る。年寄佐野山も来る。今夜花火有。 十日、今日金ぴら角力へ大森役所より鈴木忠介様、武広三蔵様出役。 ・・」と記されており、当時陰暦八月十日に行われていた金毘羅社の 祭礼相撲が「詣人村々より来りて雲の如く」と言われるとおり、いか に盛大であったかということがうかがわれます。

これを見ようと、近郷近在から見物人が押しかけた。見物人は、土俵 周辺にあふれ、人垣で見えないものだから、まわりの崖に生えた木の 上にまでびっしり登って見物したのだった。この賑わいは、昭和20年 代後半までつづいた.現在は子供を中心の相撲大会に変わっている。

小林一茶は、寛政年間から文化年間(1789〜1818)にかけて頻繁に布 川を訪れ徳満寺、来見寺、鶴殺しの泪塚などで句をつくり、俳文を残 した享和3年(1803)には、自ら琴平相撲を見物している。この時「 正面は親の顔なりまけ相撲」の句をつくっている。これは子供相撲で あろう。

また地元の人に口伝えられてきた「 べったりと人のなる木や宮角力
の句は、一茶自筆の句帖「七番日記」の文化14年(1817)8月の項 に記されている。

句碑は、この句帖から一茶自筆の文字を拡大して刻んだものです。 (利根町史第4巻および他より)

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