元利根町立文間小学校教諭 高塚 馨 著

栗林義長物語

第三部

義長味方をだます

それから何日か過ぎた8月15日の夜(旧暦)、福岡の陣内では各武将が集まり、 月をながめ酒宴をもよおしておりました。その夜は雲一つなく、風もなく、素晴 らしい仲秋の名月が夜空にぽっかりと浮んでいた。その夜だけは各武将とも戦争 のことを忘れ、酒をくみかわし、芸などを出し合い和気合々として楽しんでいた。

ところが突然に丑寅(北東)の方より未甲(南西)の方にかけて明るい流星がは しった。それを見ると義長は持ってた盃を置き、「みなの衆今の流星をごらんに なりましたか。いよいよ近いうちに敵が攻め寄せてくる知らせですぞ。わしが昔、 木曾の山中で道に迷ったとき、白髪の老人より学んだことによれば、流星が丑寅 の方角より未甲の方へ飛んだときは、近いうちに敵の大軍が押し寄せてくるとい う前兆であるとのことであった。みなさんよくよく気を引きしめておいていただ きたい。」と言った。ちょうどその時、義長が放しておいた間者が立ち帰り、 「殿、佐竹の軍が水海道より援軍をもとめられたため、近いうちに大軍を引きつ れ、この福岡へ攻めてくるということでございます。」と報告した。

諸将は義長が天文を占うことにも秀でていることを知り、改めて義長の偉大さを 見せつけられたと同時に、この人の言うことを聞いていれば絶対にまちがいはな いのだと、心に誓うのであった。しかし、これも義長の作戦のひとつであって、 佐竹が攻めてくるということは、もう2時間も前にわかっていたのであるが、間 者にいいふくめ、わざわざ流星のあるのを待って報告させ、諸将達が心から自分 についてくるように仕向けたのであった。   (2000.8.7記)

佐竹軍との戦い(前編)

栗林義長は、その夜遅くまでこれからのたたかいについての作戦をねった。翌朝、 各武将は岡見大輔殿の本陣に次々と集まってきた。義長の作戦をきくためである。 義長はおもむろに作戦をさずけた。

「これから直ちに出発して、佐竹軍と戦う。主君大輔殿は、この城にとどまり、 待機していただきたい。梅沢右近、諸岡逸羽の二人は二百の兵を引きつれ今ケ島 (今鹿島)に行き、そこに陣屋を作り敵の来るのを待つこと、木村兵庫、寺田治 部は五百の兵を引きつれ、百家に出て陣をとる。そして、今ケ島より梅沢・諸岡 軍がわざと負けたふりをして逃げてくるので、それと協力して一時そこで防げ。 菅谷左衛門は三百余騎を率いて島野に出て陣をとり、百家から味方がいつわり負 けて引き返してくるので、そこで敵を一時防ぐように。直井泉、高井民部は兵糧 を集めて各陣屋へ送るように。それがしは三千余騎にて島野へ行き、味方が敵を あざむき、負けて逃げてくるものと合流し、そこで決戦を行うことにする。わか りましたかな。わかったら今すぐ自分の割り当てられた所へ急いでくれ。」

足高・牛久の軍勢が福岡に陣をかまえ、筒井の北条氏尭の軍と両方からはさまれ た、水海道にいる多賀谷軍から、苦しいので助けてくれという知らせの入った水 戸の城主佐竹右京太夫義宣は、佐竹左衛門、車丹波守の二人を大将として五千の 兵をあずけ福岡の陣を攻めるよう命令した。

二人は笠間まで兵を進め、斥候をだして調べてみると、敵は今ケ島に陣をかまえ ているとのこと。さっそく車丹波守は二千余騎を引きつれて、今ケ島へと押し寄 せた。牛久勢は二百余騎の少数ながら、何れ一騎当千のつわものばかりである。 梅沢・諸岡は諸勢に下知して、弓、鉄砲を雨のごとく打ち出して防ぐ。敵も、こ れをものともせず、よろいの袖をたてにして攻めよせる。この時、陣屋から二百 余騎が木戸を開けて切ってでる。互いに切先より火花を散らして戦っていたが、 牛久方は「もうここらでよいだろう。」と鐘を鳴らした。それを合図に牛久方は 百家をさして引き退いた。

佐竹の軍は勝ちに乗じて追っていく。百家で待っていた牛久軍はこれを見ると「 それ味方を討たすな。続けや続け」と木戸を開き一手になって押し出し、ここを 先途と戦った。しかし、敵は多勢味方は無勢、ここでまた牛久勢は鐘を鳴らす。 それを合図に牛久勢は島野をさして引き退く。丹波の軍は、二度の戦いに勝って 敵の陣や二ヶ所を取ったので気分壮快である。このことを佐竹左衛門に報告すれ ば、左衛門大いに喜び、今宮主計に兵糧を調達させ、今ケ島まで送らせ、自分も 百家に出かけていき丹波守と対面した。そこでいよいよ島野攻めへと向かった。 島野では栗林義長は敗軍の兵を集めて次の作戦をさずけていた。

「まずここで一戦を交え、頃合を見て間瀬(真瀬)の館にこもるように。」と。 そこへ佐竹の軍勢がワーッとときの声をあげて押し寄せてきた。牛久軍も負ける ものかと戦っている。互いに切り回り、火花を散らして戦ったが、ついに義長軍 は力つき間瀬の館へと逃げ帰った。勢いにのった佐竹勢は間瀬の館を二重三重に とり囲み、「それ一人もも逃さずうち取れ。」とばかり攻め寄せた。

館に入った義長は、全軍に下知して、弓や鉄砲を雨の如く打ち出し、厳重に防い だので、さすがの佐竹軍も攻めあぐねてしまった。そこで佐竹軍はどうしたらよ いかと評議を重ね、陣屋の回りに高く堤を築き、その上に人を登らせ、鉄砲を打 ち込むことにした。そんなわけで佐竹軍は、その夜のうちに人夫を集め、高い土 堤を築き、夜明け同時に堤の上に鉄砲隊を並べて陣屋内に打ちこんだ。これには 牛久軍も大いに驚きたてを並べてやっと防いだ。 (2000・8・8記)

「これは大変なことになったぞ。何とかせねばならぬ。」と考えた義長は、戦車 をたくさん作らせて、その上に鉄砲隊と弓隊を上がらせ、敵が土堤に上がるのを まって戦車を引き回し、鉄砲や矢を打たせた。これは見事に成功して堤の上の人 は残らず射落してしまった。そもため、佐竹の軍は土堤に上がろうとする者がい なくなってしまった。戦闘はにらみ合いのまま、二日、三日と過ぎていった。間 瀬の陣内の将士たちはあせってきた。

「義長殿何を考えておられるのであろう。このままじっとしていたのではやがて 兵糧はなくなり、我々は餓死してしまうのではないか。それよりもこうして我々 が取り囲まれている間にも多賀谷軍が福岡の城へ攻め寄せてきたらどうなるんだ。 勝ち負けは時の運だ、いちかばちか戦ってみて、もし負ければ福岡の本陣まで逃 げ帰り、そこで篭城するのが得策だと思うがな。」義長はしかしそれらの諸将の 不満をじっとおさえて動かなかった。

四日目の夜、一人の男がそっと義長の近くへやって来た。水海道へ潜入させてお いた間者である。その者の報告によれば、「下妻勢はいよいよ今日、わずかな兵 を残し七千の軍を引きつれて北条氏尭軍と戦うため筒戸へと向って出発した。」 とのことである。義長はやっぱりわしの思った通りになってきたとニッコリした。 そして諸将を集めて、今後の作戦をいい渡した。「みなの衆、今までよく辛抱し てくれました。それがしが今まで佐竹軍のために今まで負けたふりをして、この 館にじっとしていたのは、下妻勢をあざむくためだったのだ。」

「多賀谷政経は池田の子庄治郎が北条方の筒戸へ逃げたことに非常な腹を立てて いる。だから、福岡を攻めるよりは北条を攻めたくてうずうずしていた。しかし、 北条を攻めに行けば福岡軍にあとを攻められるのが目に見えている。だから、佐 竹に我々の福岡軍を攻めさせた。それにもかかわらずじっと動かずに水海道にと どまっていたのは、佐竹軍がどれ程の力かためしていたのだ。そこで我々は負け たふりをしてどんどん退き、間瀬の館にとじこもった。回りは佐竹軍が二重三重 に取り囲んでしまった。これで義長軍は絶対負ける。だから後ろからの攻めは安 心だ。よし筒戸を攻めて北条方を一挙に打ち破ろうと多賀谷政経は考えた。ばか な政経め、それがしの作戦にすっかりはまりおって、今日水海道にはわずかばか りの守りを残して大軍を引きつれ、筒戸まで出かけたそうだ。」

「由良信濃守殿、あなたはこれからすぐ城外の敵の一方を打ち破り、福岡まで走 ってくれ。そして岡見の殿に申してくれ。今夜のうちに水海道を攻めるようにと。 それから他の方々は、それがしと一緒に明朝佐竹軍を打ち破ることにする。木村 兵庫、寺田治部は五百騎を引率し、今ケ島の陣屋へ行き敵の兵糧を焼きすてるこ と。梅沢右近・諸岡逸羽は五百余騎をひきいて百家の陣へ行き、敵がこちらに向 ったすきに陣をうばい、中を固く守っていること。菅谷左衛門は一千余騎を引き つれ、島野の西の小松原へかくれ、敵が引き返すところを弓、鉄砲で打ちのめせ。 それがしたち残った者全員でここから敵を追い落すことにする。わかったな。わ かったら明日はの戦さにそなえて兵にゆっくり休養をとらせておけ。」   (2000.8.12記)

佐竹軍が義長軍に敗北

諸将たちは軍師義長の命をうけると夜の明けるのを今や遅しと待っていた。夜が 明けると準備の整った陣内の軍は木戸をさっと開くと同時に、一斉に外へ飛び出 し佐竹軍めざしてつっこんで行った。不意をつかれた佐竹軍は右往左往の大さわ ぎ、鉄砲もそのままにして逃げ出した。丹波守も今は仕方なく島野の陣へと引き 返すことになった。義長は「敵を打ち破るのは今をおいてないぞ。」とどなりな がら急進すれば、島野へも足を止めることはできず、百家をさして引き退く。と ころがその途中には菅谷左衛門敵の落ちてくるのを今や遅しと待ちかまえていた。 鉄砲と弓隊を三組に分け。最初の組が打ち終わると次の組が入れ代って打ち、そ のうち次の者が玉や矢をつがえて待っているというように、矢や鉄砲玉が雨あら れと打ちこまれた。佐竹勢の大半はここで打ちとられてしまった。

残った軍兵は命からがらやっとの思いで百家へたどりついた。しかし、ほっとし たのも束の間、陣屋の中に向って「門を開け。」と呼びたてたところ矢倉の上か ら弓、鉄砲をいやというほど打ちこまれてしまった。佐竹軍はあわてて「味方だ ぞ、打つのを止め。」とどなった。すると矢倉の上から答えが返ってきた。「我 々は栗林義長の命により陣屋の中に入れかわった梅沢左近諸岡逸羽の軍なるぞ。 」あわてた佐竹軍。今はこれまでと今ケ島へと引き退く。ところがそこへ、今宮 大学が息をもつかずにとんできて、佐竹左衛門に向って叫ぶことには、「ただ今、 我々の兵糧は福岡勢に後ろから急におそわれ、火をかけられた火を消そうとした ところ、鉄砲を打ちかけられて消すことも出来ずみな焼かれてしまいました。」 とのことであった。ここに於て佐竹軍は栗林義長の作戦に見事にかかり、散々に 打ち負かされて小田北条へと逃げ返ってしまったのであった。

多賀谷軍総崩れ

さて、一方福岡では、由良信濃守が間瀬より帰り栗林義長の計略を諸将に報告し た。そこで岡見宗治をはじめ、月岡玄蕃、土岐伊予守、豊島紀伊守等は大軍を引 きいて夜に乗じて水海道へと押し寄せた。不意をつかれた下妻軍は戦う気力もな く我先へと逃げてしまった。そのころ、多賀谷淡路守は、筒戸攻略のため新宿に 陣をかまえ、北条氏尭の軍と相対していた。そこへ水海道より急ぎの使者がやっ て来て「作夜、福岡勢が水海道に攻め入り、不意をつかれて我が軍は打ち負かさ れてしまった。」との報告が入った。淡路守は大いに驚き、すぐに軍をまとめて 引き返そうとすれば「この時をのがしてなるものか。」とばかり北条軍が追いか けて来る。そこへ水海道で勝った福岡軍お岡見宗治をはじめ月岡玄蕃、土岐伊予 守、豊島紀伊守などが反対側から押しかけて来た。そればかりか佐竹の軍を散々 打ち負かして意気益々上がる栗林義長軍がやって来たからたまらない。多賀谷軍 は命からがら下妻めざして逃げ帰ってしまった。

大勝利を収めた北条・足高連合軍は、ここに会議を開き、この上は一気に下妻ま で攻め入り多賀谷を攻め滅ぼしてしまおう。ということに決まった。ところがそ こへ小田原より使者がやって来て「織田上総之助信長公が柴田勝家を大将として 関東へ攻めてくるといううわさがあるので、早々に陣をおさめ、小田原へ帰って くるように」と伝えてきた。そうこうしているうちにもまた、布川から使者がき て、「千葉之助頼胤が大軍をひきいて攻めてくるという様子なので急いで後加勢 願います。」といってきた。また、少したつと、江戸崎からも使者がきて「麻生、 行方のやうらが軍をまとめて江戸崎へ攻めてくる気配があるので、早々にお帰り になるように」といってきた。

諸将たちはおどろいて「今後どうしたらよいか」と評定する。「ああ、あと七日 もあれば多賀谷をほろぼせたものをこのまま引くのは残念です。これが足高城主、 宗治滅亡となる前ぶれかも知れぬ。」と宗治がいえば「とにかく多賀谷は散々の 態で下妻へ逃げ帰ったのだし、すぐには軍をまとめることはできまい。だからこ こはまず下妻を差し置き、それぞれの城に帰り、守りを固めたらよかろう。」北 条氏尭の言葉で評議は決し諸将はそれぞれ兵をまとめて、それぞれの地へと帰っ ていった。

義長下総守となる

北条氏尭は、小田原へ帰ると氏政公に会見し、下総での戦況を報告した。その中 で特に栗林義長の智謀の素晴らしさをほめたたえた。そのことを聞いた氏政公は 「よしそれならば、岡見宗治を常陸下総両国の惣追補司に任命し、栗林義長を下 総守に任命し、大将として佐竹右京大夫、多賀谷修理大夫、千葉之介等を退治さ せよう。」と言って、ひそかに京へ使いを出して天皇に願い、岡見中務大輔を従 四位下中将に、栗林義長を従五位下総守に任ずるという証明書をもらわせ、手紙 を書いて足高の城へ届けさせた。岡見・栗林はともに喜こび、南に向って頭を下 げ、「このご恩は決して忘れません。小田原より命令があれば必ず参上し、この 義長命のある限り、織田でも徳川でも必らず攻めほろぼしてみせます。」と固く 心に誓うのだった。

千葉攻め

義長は、若柴の城内でひとり弓のけいこをしていた。そこへ家来の一人がやって 来て「足高からの使いの者が見えまして、すぐ登城するようにとのことでござい ます。」と告げた。何事であろう、と思いながら、義長は足高へと出向き、岡見 中将の前へと進んだ。すると、「小田原より、今少し前に使者が来て、すぐ千葉 を攻めるように、とおおせがあった。」と伝えられた。若柴城へ帰るとすぐ義長 は手紙をしたため、「千葉攻めをするので兵を集めて、布川の城へ集まるように」 と諸将に伝達を出した。

天正七年九月十八日、布川の城へ集まる者、実に一万余騎。忽ち布川の城下は人、 人でうずまった。
このことを早くも知った千葉国胤は諸将を集めて会議を開く。佐原城には弟の信 濃守頼胤を大将として二千余騎、矢倉矢倉に鉄砲を準備してそなえる。臼井の城 には千葉東六郎勝胤を大将として一千余騎で守らせ、米元の城には原縫殿之介以 下五百余騎、武石の城は武石三郎他八百余騎、惣源の城は原美濃守を大将に竜腹 寺の悪僧など入れて七百余騎で守る。さらに笠神の城には原肥前守を大将に五百 余騎、君津の城には千葉兼正を大将にして八百余騎、滑川の城は織田左京太夫を 大将に七百余騎、助崎の城は内田信濃守他五百余騎、そして大須賀の城には大須 賀尾張守を大将に二千五百余で相守るよう決定した。

当時の城の配置常総地域の城配置図

当時の勢力図
栗林義長千葉攻めの図
(2000.9.12記)

布川の城では栗林義長、諸将を集めて、千葉攻めの作戦をさずけていた。
豊島紀伊守は豊島肥前守、香取若狭守、和田民部など一千余騎にて惣源の城を攻め ること。荒木三河守は河村出羽守、林伊賀守など一千五百騎にて米元の城にせまる こと。高木兵庫は、安蛭安芸守、綿貫大学ら一千二百の兵をひきいて武石城を攻め ること。また、ここには来ていないが土岐伊予守、菅谷左衛門は今、行方・麻生を 攻め、さらに佐原攻めに向うことになっている。「わしは相馬小治郎、月岡玄蕃な ど七千五百の兵を引きつれ、敵の根拠地である佐倉を攻めることにする。お互いに 連絡をとり合い、助け合いの心を持ってことに当たるようにしておらいたい。決し て功を争うことのないようにな。」

豊島紀伊守は、義長の命により、惣源の城へと押し寄せていった。城主原美濃守は 城内より弓を射かけ、鉄砲を雨のように打ち出して防戦する。寄せ手も鉄砲を打ち 返し、その音はしばし天によどろき雷のようであった。やがて布川勢優位にたち、 二の丸を破り城内に突撃すれば敵は防ぐことが出来ず、ついに降参してしまった。

注)利根川図志第3巻では「印西合戦」と して笠神戦に先陣した布川勢の様子が書かれております。「常総軍記巻二十云、 かくて義長兵をすすめて竹袋にかかって平岡へ出で、すでに小林にいたる。小林十 郎左衛門が籠りし砦を責めうごかす(天正十三年二月七日)。

米元城へと押し寄せた荒木三河守の軍は、城将原縫殿之介はじめ場内の兵の必死の 防戦に攻めあぐねていた。そこへ我孫子城主の我孫子五郎左衛門が萱田口より七百 余騎を引きつれ応援にかけつけた。やっと城を持ちこたえていたところへ、新手の 軍が加わったのだからたまらない。縫殿之介はついにたまらず城を明わたし、臼井 の城へを逃げてしまった。

千葉頼胤を生けどる

栗林下総守義長引きいる本隊七千五百は、まず手始めに笠神の城へ押し寄せれば、 城将原肥前守はあまりの大軍に恐れをなし戦わずして降参してしまった。最先よし と義長は、原肥前守を案内者とし、吉高より大船に打ち乗って柏木に上陸し、志水 が原に本陣をつくる。ここで月岡玄蕃を大将として、一千五百の兵をあげて、君津 城を攻めさせる。君津の城では千葉兼正を大将として八百余騎にて守っていた。こ この城中軍なかなか強くして足高軍は攻めあぐみ、この上は遠巻きにして兵糧の道 を絶ってしまえば、自然に落城するだろうと持久戦にもちこんだ。
(常総の城址に興味のある方に丁度良いホームページがございます。著者:余湖浩 一氏 「千葉県・茨城県の城址 2000余」で戦記等解説付きですので、どうぞ。)

一方では相馬小治郎を大将に一千五百余の兵をあずけ志水の城に向わせた。敵は原 式部太夫を第一陣の大将として一千六百余騎、義長軍がやって来たならば一気にせ ん滅してやろうと待ちかまえていた。しばらくは互いにはげしくぶっつかり合い、 勝ったり負けたりでなかなか勝負はつきそうもなく見えた。後方にいた下総守義長 は、この様子を見てついにたまりかねたのか、諸将を集めて作戦をさずけた。

「明日は、敵の大将頼胤を生けどりにせよ。その策略をいまからいう。志水のこちら に大きな穴を掘り、負けたふりをして逃げるのだ。敵は勝ちに乗じて一気に押し寄 せてくるから、謀とは知らず陥穴の中へ落ちるであろう。」諸将たちは命令にした がって、夜通し大きな穴を掘らせ、その上に竹をわたし、革をのせ、その上にそっ と土をかけて平地のように見せかけた。
さて次の日、義長軍は五段にそなえ、先陣は相馬因幡をはじめ八百余騎、二陣は相 馬小治郎など一千余騎、五陣は総大将栗林下総守義長三千余をそなえた。

臼井の城主、千葉東六郎勝胤は佐倉の様子はどうだろうかと斥候を出してみさせれ ば、敵は志水まで来ているとのことに大いに驚き、頼胤殿の応援をせねばなるまい と一千余騎を引きつれて志水の陣へとやってきた。頼胤は大変喜こび、互いに握手 を交わし此のうえは一気に義長軍をやっつけようと相談した。見張りの者の報告に よれば、敵は七、八百騎で押寄せてくる様子なので「それ敵は少数だ。見方は臼井 より勝胤殿が大軍を引きつれ応援にかけつけてくれたぞ。心おきなく敵を一気に押 しつぶせ。」と号令した。「待ってました」と原式部など八百余騎は鉄砲の筒をそ ろえて打ち出す。続いて信濃守頼胤大将、臼井の加勢、千葉東六郎勝胤ら二千余騎、 堂々と後ろに続き「進め、進め」と詰め寄る。

義長軍の第一陣、相馬因幡これを見ると少しの間戦いを交えただけで、「これはか なわぬ」とばかりに逃げ出した。佐倉軍はこれに勢いを得て、更に進めば、相馬小 治郎引きいる第二陣の一千余騎がひかえていた。「何をこれしき、さっとけりとば してしまえ。」と佐倉軍は一斉に鉄砲を打ちかければ、義長軍も反撃する。しばし 戦っていたが義長軍は敗れて逃げ出す。これに勢いづいた佐倉軍は更に深く進撃す れば、義長軍の第三陣、横張尾張守引きいる一千余騎がまちかまえていた。

勝ち誇った佐倉勢はこれをも軽く打ち破って前へ前へと進み行く。第四陣は横瀬能 登守他一千余騎、猛然と反撃に出れば、さすがに勢いに乗った佐倉勢も今までの戦 闘で、もう散々につかれている。やや押され気味になってきた。そこへ右手の方よ り栗林下総守義長御大将ひきいる三千余騎が怒とうのように押しよせてきた。どう にもたまらなくなった佐倉勢は一気にくずれて左手の方をめざして逃げ出した。と ころが、それが義長の謀であるとは知らず大将の頼胤をはじめ百五十騎ばかり、穴 の中へと、どしんどしんと落ちこんでしまった。大将がこんなありさまだから、そ おれに従った兵たちは知れたもので、大半は討ち死したり大けがをしたり、他は一 目散に逃げてしまった。

相馬小治郎は鉄熊手をもってきて、落ちこんだ者を引き上げ生けどりにして大将義長 の前へつれて行った。義長は「あなたのような立派な大将をを殺すのは惜しい。降参 して我々の仲間になって下さい。そうすれば、佐倉の城もその近くの城も、みんなあ なたにお返しいたしましょう。いかがかな。」と話された。頼胤は「こんな情深い方 とも知らず、手向かいをしたのはわたしの不覚でした。今後はあなたのご恩に報いる ため力一杯お助けいたすことを誓います。」と涙ながらに言うのであった。頼胤の降 服によって近隣の千葉方の城も次々と義長のもとに降参した。喜んだ義長は投降した 者たちをも引きつれ大軍をもって佐原方面へと向った。途中滑川の城を攻め取り、め ざすは佐原の大須賀城である。

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