元利根町立文間小学校教諭 高塚 馨 著

栗林義長物語

第四部

佐原城には弟の信濃守頼胤を大将として二千余騎
臼井城には千葉東六郎勝胤を大将として一千余騎
米元城には原縫殿之介以下五百余騎
武石城には武石三郎他八百余騎
惣源城には原美濃守を大将に竜腹寺の悪僧など入れて七百余騎
笠神城には原肥前守を大将に五百余騎
君津城には千葉兼正を大将にして八百余騎
滑川城には織田左京大夫を大将に七百余騎
助崎城には内田信濃守他五百余騎
大須賀城には大須賀尾張守を大将に二千五百余騎

常総の城

栗林義長千葉攻めの図

千葉勢を平定する

大須賀の城には、大須賀尾張守を御大将に二千五百余の兵が「義長軍 よ、来るなら来い。」と矢倉矢倉に弓、鉄砲を構えて待っていた。義 長は諸将を集めて作戦をさずけている。「大須賀城を攻めるのは後に する。まずその前に近隣の城を攻め取ることにする。豊島紀伊守は七 百の兵をもって古山城を攻めること。相馬小治郎は五百の兵を引きつ れ、久井崎の城へ、菅谷左衛門は五百の兵で中野城を攻めよ。千葉頼 胤殿には、吉岡の城を攻めていただくことにする。土岐伊予守は三千 の兵を引きつれ、岩ケ崎城を攻め取りなさい。わしら本隊は名木城を 攻略する。では直ちに出発の用意をしてくれ。」

かくて、古山城は秋山内紀を総大将に三百の城兵で守っていたが、豊 島軍の果敢な攻撃に死にものぐるいになって奮闘したが、ついに力つ きて大須賀城めざして逃げのびてしまった。中野城も木内壱岐守を大 将に四百の兵にて力の限りに戦ったが、菅谷左衛門に城門を破られ、 ついに降服してしまった。久井崎の城は鴨毛孫四郎をはじめ三百の兵 が城を堅く守り、相馬小治郎ひきいる五百の兵と対等に戦っていたが 、そこへ古山城を攻め取った豊島軍と、中野城を落とした菅谷軍が合 流し、総攻撃をかけてきたので、ついにたまらず落城してしまった。

吉岡攻めを命ぜられた千葉頼胤は途中大宝という所で円通寺という寺 に立ち寄った。そして、そこの住僧に対面すると、「わしはこのたび 、義長軍に加わり吉岡を攻め、大須賀へとむかわねばならぬことにな った。吉岡も、大須賀も今までは我々の仲間であった者たちばかりで ある。ここで相戦うというのは誠に忍びがたい。何とかお前の力で和 談するよう尾張守のところへ行ってきてはくれまいか。」と頼んだ。

大須賀城では尾張守が諸将を集めて、名木、久井崎、中野、古山、吉 岡の戦いはどうであろうか、と評定していたところへ秋山内紀が急い で入って来て、名木、久井崎、中野がすでに落城し、いよいよ義長軍 は大軍をひきいてこちらへ押し寄せてくるであろうことを伝えた。

ちょうどそこへ円通寺の住僧が城中に入ってきて、「義長という男は 情に厚く、降服したとしても決して悪いようにはしない。」と頼胤の 依頼をつげた。そして和談をするなら「わたしが中に入って取りはか らいましょう。」と、こんこんとさとせば、尾張守は大いに喜こび、 「ではそちに頼もう。よいようにして下さい。」と申された。そこで 円通寺の住僧は、栗林下総守のもとへ行き<、尾張守降服の事を申し 出ると義長も大いに喜こび、すぐ和談に応じた。

しかし、これもみな義長の作戦のうちであった。頼胤軍を無理に攻め て、せん滅することをせず、生けどりにしたり、佐原攻めに頼胤をつ れてきて、大須賀城攻撃をあと回しにし、わざわざ円通寺を通る吉岡 攻めに回したのも、彼をこうすればこうなると読んだ上での考えであ ったのだ。栗林義長は城外出迎えた大須賀尾張守と対面し、さっそく 城中で祝宴に入った。「早速、味方に加わるとのこと、お互いのため に大変よいことである。今まで攻め取った名木、久井崎、中野、古山 などの城は残らずみなあなたにお返ししましょう。今後はお互いに助 け合って、近辺諸村の平和のために力をかし合おうではないか。」と 義長がいえば尾張守涙ながらに「もったいないお言葉、いたみいりま す。」とていねいに頭を下げた。

この知らせはすぐに吉岡、岩ケ崎、矢作へも知らされた。ここに千葉 勢と足高勢との戦いはめでたく終結したのであった。千葉勢を配下に 収めた義長はこのことを小田原お北条氏直に報告すれば、氏直公大変 喜こび、巻物百と馬三頭を当座のほう美としてくだされた。

全国の情勢をさぐる

近辺の平定に成功した義長は海老原五郎と小川雅樂之助の二人を引き つれると、全国の様子を探るため各地を回り歩いていた。そして、や がて三年の月日が流れ、天正十一年三月となった。その頃、西国では 日の出の勢いで相次ぐ強敵を打ち破り、九割方天下を手中に収めかけ た織田信長が明智光秀のため本能寺に於て殺され、その後継をめぐっ て豊臣秀吉と柴田勝家が相対していた。義長が情勢を判断するところ によれば、どうみても秀吉方が有利であり、三、四年の間に秀吉が天 下取りに成功することは明らかである。

義長は急いで鎌倉へ帰ると、北条氏友と対面し、西国の現状を説明し た。氏友は大いに喜こび、このことを早速氏直公に報告すると同時に 「今こそ、栗林義長の関東勢をもって都を攻めさせれば天下は北条の ものになりますぞ。」と言上した。しかし氏直はその考えを用いよう とはしなかった。このことが、やがて秀吉の小田原攻めにあい、北条 氏滅亡につらなるとは彼も予期出来なかったのである。

江戸崎を助け佐竹勢を打ち破る

義長が足高に帰ると地元は一変していた。多賀谷軍は勢いを盛りかえ し、大軍にて福岡を攻めとり、谷田辺を落し、小田城を攻略し、岩崎 の城をも落城させ足高城を一もみにせんとねらっていた。また、佐竹 勢は浮島城、木原城を攻め落し、破竹の勢いで竜ヶ崎城をも攻めとり 、江戸崎城を一気に攻め取ろうととり囲んでいた。足高の同盟軍もい つ自分の城を攻められるかもしれないので、窮々として自城を、守っ ていたところである。

驚いた義長は、早速同盟の各城へ使いを走らせた。義長が足高に帰っ たことを知ると、今まで縮んでいた同盟軍は、枯れかけた草木に水を やったように元気をとりもどすと、喜こび、勇んで義長の元へと集っ てきた。義長は、まず手始めに竜ヶ崎城を取り戻すと勢いを整いて、 江戸崎城を取り囲んでいる佐竹勢を後ろから攻めた。義長軍が助けに きたことを知った江戸崎城内の兵は元気百倍になって城門を押し開く と一気に佐竹勢めがけて突っこんでいった。この勢いにあわてた佐竹 勢は、ついたまらなくなって総崩れになって逃げのびてしまった。

多賀谷軍に夜打ちをかける

佐竹軍を打ち破った義長軍は、後を江戸崎軍にまかせるとすぐに軍を まとめ足高に帰った。多賀谷重経は品堀に本陣をとり、鶴首の台には 多賀将監が二千余騎にて守っていた。義長は夜打ちかっける作戦をた てた。まず、月岡伝助、本田越中には七百余騎をあずけ、小舟に乗せ て衣内にしのびこませ、兵糧を焼かせた。それを合図に義長軍三千余 騎は一斉にときの声をあげて品堀、鶴首の台へと突っこんで行った。

たちまち多賀谷の陣内は八方に火をつけられ真赤に燃え広がった。 不意をつかれた多賀谷の軍勢は火を消すか、戦うかでただうろうろす るばかりで散々に打ち負かされ、大将多賀谷重経は命からがら、やっ との思いで岩崎の城へ逃げ帰ることができた。この戦いで多賀谷軍の 半数は討ち死にし、義長軍も忠臣小川雅之助信綱をはじめ、七百余騎 の損害が出た。このことから、いかにこの戦いがすざましかったかが わかる。

義長病気となる

それから三日後、義長は諸将を集めると、「多賀谷はこのたびの戦い に敗れたことを非常にいきどおっている。必ず近いうちに戦力を整い てこの城へ攻め寄せてくることは間違いない。『先んずれば人を制す 』ということわざもある。おくれては人に制せられる。本日これより 岩崎へ押し寄せ、多賀谷父子の首をとらんと思う。一同協力してこと に当たっていただきたい。」と言って立ち上がった。が、急に「うー ん」と腹をおさえると倒れた。その後重い病の床についてしまったの である。今なら手術をすれば簡単に直ってしまう病気であったかもし れないが当時はどうにもならなかったのである。

お寺の僧によるごま修行や、神社でのお百度参りなど様々の手をつく したが、病気は悪化する一方であった。岡見入道、岡見中将はじめ高 城兵庫、豊島紀伊守、相馬小治郎など各武将も心配気にただ見守るだ けであった。自分の死が近ずいたのを知った義長は、痛みをこらえて 起き上がると、「殿をはじめ、みなさま方には、この若輩のわたしに 目をかけられ、御協力いただきましたことを深く感謝いたします。い よいよこのわたしも、この世とお別れしなければならなくなった様で す。これも運命というもので仕方のないことでございますが、願わく ばあと三年の年月をわたしに与えていただきたかった。そうすれば多 賀谷、佐竹という当面の敵をうち滅ぼした後、上洛をくわだて天下を 殿のものにしてあげられたものをとそれだけが残念でございます。心 残りでございます。

わたしが死んだと聞いたならば、下妻勢は必ずここに攻めてくること でありましょう。もし、敵がこの城を十重、二十重に取り囲み、攻め たとしても決して降参してはなりません。また、仲直りの甘言に乗せ られてはなりません。皆で<協力して最後まで敵から守り、かなわぬと 思ったら上野へ使えを出して由良信濃守に援軍を頼むようにすればい い。彼ならば必らずわたしに代わって敵を追い払ってくれるだろう。 」と、ここまで言うと急に病状が悪化し、そのまま、諸将に見守られ ながら息が絶えてしまった。

人に惜しまれるほど早死するという、その時彼は三十六才の男盛りで あった。義長の遺体は敵に悟られぬように、ひっそりと牛久城の北山 福寿山東林寺へとほうむられたのである。

後話

義長の死を知った多賀谷重経は、時こそ来ると、大軍にて岡崎城へと攻め寄せ てきた。義長の死で気落ちしている上に、年老いて気弱になっていた岡見入道 は、ひそかに家来を呼び重経に和睦を申し入れてしまった。そのことを後で知 った子の岡見中将はじめ、高城兵庫、豊島紀伊守、相馬小治郎などがいさめた が聞き入れられなかった。天正十五年十月、入道殿はわずか四人の家来をつれ て、和睦の酒宴にまねかれ猿額山へと出掛けて行った。義長の心配した通り、 酒宴の席で、前もって隠れていた二人の家来に切りこまれ、岡見入道の首を取 られてしまったのである。それと同時に、一斉に岡見の城へめがけて攻めこま せた。不意をつかれた岡見勢は散々に打ち負かされ、岡見中将もやっとのこと で若柴城まで逃げのびたが、その城も焼かれ、ついに焼死してしまった。

上野の由良信濃守は足高城が多賀谷軍に囲まれ危ないということを聞き、五千 余騎を引きつれ、夜を日に道を急ぎようやく板戸井村に着き、里人に足高の様 子をたずねると、もはや、足高の城は落とされ、多賀谷勢は大軍をもって守谷 の城を囲み、戦争中であるとのことであった。そこで先ずは守谷を助けようと そちらへ向かい、敵を追い散らした。さらに天正十六年春、由良信濃守は多賀 谷重経から足高城を取り戻すのに成功した。しかし、すでに岡見父子はこの世 の者ではなかったのである。

後日記

この物語は「東国戦記実録」をもとにして書いたものです。現在、竜ヶ崎市馴 馬に女化稲荷神社があり、参詣人でにぎわっておりますが、その狐の孫がこの 物語の主人公です。義長の栗林家は筑波郡伊奈町に今も実在しており、民話と 史実が入り混じってできているところがこの物語のおもしろいところです。 昔の郷土へいくらかでも興味を持っていただけたらという願いでこの拙文を書 きました。

皆様方のご協力に対して心から感謝申し上げます。
昭和五十一年八月(第一回出版)   
      北相馬郡利根町立文間小学校教諭 高塚 馨

このページの管理者から
個人のホームページとしては随分と長い読み物になってしまいましたが、ここ までご愛読下さいました訪問者の皆様方に厚く御礼申し上げます。

赤松宗旦著「利根川図志」には印西合戦の項があり、布川城主豊島紀伊守が足 高の岡見氏とともに小林・笠上城を攻めた様子が描かれております。このこと で柳田國男先生は「利根川図志解題」 の中で、引用書の「常総軍記」のことを
「是は誠に愉快な本であって、大方土地の人々が斯うであったら面白かろうと 思ふようなことが、皆その通りに歴史として書いてある。」と評し、「是が如何 なる目的の下に、どういう人によって書かれたかといふことは、赤松氏も大よ そは知って居たと思ふが、既に成書として世に行われて居る以上は、書名を掲 げて之を引用することも、話題を豊かにする意味でよいことと認めたのであら う。」と結び。
栗林義長の出生については「下総北部の或る村には、特に其狐 の血筋を引くと伝える孫左衛門とかいふ農民の家があったことは、江戸で近い 頃までの語り草であった。『常総軍記』は多分その幽かな口碑を足がかりとし て、際限も無く展開させて行った夢物語だったのである。」と論じている。

なお、「東国戦記」は元禄年代の作品で下妻多賀谷の浪人が下総の国相馬郡川 原代村(現在の竜ヶ崎市)にて書いたものだそうです。
同一本でまたの名を「常総軍記」というのは、常陸の国河内郡岡見の旧臣であ る松好庵という人が相馬郡大房(現在の利根町大房)に住んでいて前書を補正 したのだそうです。どちらも利根町及びその近辺に深いかかわりがあり、柳田 國男先生がそのことを指摘されたのです。

中世史資料の少なさはこの地域に限ったことではないが、戦国時代に豊臣秀吉 と戦って負けた下総の武将たちの史・資料は散逸してしまったものとみられる 状況のなかで、領主の存在は位牌、お墓、城跡の発掘(例えば小林城)などで 実存が確認されています。また、地名も正直に昔の様子を物語っている事から 「常総軍記」や同様の書「東国戦記実録(明治41年刊行)」をフィクションと と位置つけした上でも何十パーセントかの事実は隠されていると思います。

戦争に明け暮れしたであろう茨城県南、そして利根町、千葉県北部等。この時 代武士の陰に隠れ、または、狩出され、そして右往左往(布川に一万人集結? ーその時村人は!!)したであろう当時の村人の生活にも思いをは せ、現在の幸をかみしめながら頑張って書いて来ました。

このページが高塚先生のおっしゃる「郷土の昔を偲ぶ」よすがとなれば幸いで す。

この物語のホームページ掲載を快諾下さいました 著者の高塚先生に心から御礼申し上げます。  「ありがとうございました。」

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