利根町の歴史
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(利根町史第6巻より抜粋)
文間明神の社の項から抄録する。この社は両社からなり、西が角(門)の宮、東が奥の宮という。 延喜神名式なる相馬郡の蛟もう神社である。「惣国風土記」に「蛟もう(みづち)の神社 (かみやしろ)、圭田三十九束三畝田祭る所は罔象女(みづはめ)也。天平二年(730)庚午六月始 (はじめて)圭田を奉つて神事式祭等始(はじまる)也」とある。
社領は五十石である。例祭は六月十五日と九月十五日、この時神輿を交代する。里人がいうには、奥の宮は親神で角の宮は子神である。 夏の暑さを避けて親神が角の宮に遷るのだという。
九月の祭日には御衣焼(みぞたき)という神事がある。夜明け前に旧(ふる)い茵(しとね)を焼くのである。新調の茵料は 故があって、松平伊賀守より絹二疋(四反)と大蝋燭が奉納される。故事について図志にはなにも書かれていないが、 初代布川藩主松平信一が、幕命によって慶長三年(1598)蛟もう神社の造営を果たしている。
以来松平侯は封地や代が替っても、蛟もう神社への崇敬の念に変わりがなく、ちなみにいえば、忠晴系八代目を継いだ 信州上田の藩主松平忠優(ただます)は嘉永五年(1852)地元信者と共に蛟もう神社へ唐獅子一対を寄進している。
「布川は一帯の丘山を背(うしろ)にし前は利根川に臨みて街衢(がいく)を列ね、人烟輻湊(じんえんふ
くそう)して魚米の地と称するに足れり」と布川の概観を述べ、ことに
六月十四日の布川神社の宵祭り、
八月十日の金毘羅角力、
十月二十一日の地蔵祭などは、
参詣の人々が、村々から参集してまるで雲が湧くようであり、灯火は町々照らして
月の光のように明るい。
魚は銚子から風を孕んだ帆船によって輸送されるし、酒は江戸から一葉(小舟)が運んでけるし、なんの不足もない。 その時大抵の人は酒に酔ってはいるけれど、平和な世の恵みに浴して酔い痴れるような者はいない。小女は砂糖もち にさえ飽きて、ほかのものを欲しがらないと、豊かな暮らしを讃えている。
先ず布川大明神は、祭神が句々廼馳ノ命(くぐのちのみこと)。例祭の六月十四日、
〆切の仮殿に神輿を出す。
十五日は屋台などを出して大いに賑う。十六日、神輿が本殿に帰る時境内に
尋橦(つくまい)の舞がある。
先ず庭上に船形を造るこれを御船という。これにツク柱という帆柱を立てる。舞人は雨蛤(あまがえる)の面をかぶり、 立附をはき竹弓を持ち、柱に上りその上でさまざまな曲技を演じて見せる。
この時船中では八、九歳の男子数人に地舞を舞わせる。鶴、亀、鹿、猿、竜などの面をかぶる。なかでも大蛇が姫を 呑もうとするのを、山伏が防ぎ守る状(さま)を演ずる。これは素盞烏尊(すさのおのみこと)の故事に学んだもの であろう。舞のさま、笛や鼓の囃子は至って古風である。 (注「つくまい」については次回「つくまい幻想」で考証します。
徳満寺については、樹々の間に利根の舟行を眺め遥か彼方に手賀の沼水を看ると、風光明媚であることに触れてから本題 に入って、次のように書いている。
真言宗で、常陸國信太郡大岩田村法泉寺末である。開基は詳らかではないが、元亀年中(1570〜1573)に 佑誠上人が再興したと言われている。同寺地蔵堂の本尊地蔵菩薩は湛慶の作で身の丈七尺三寸(約ニ・ニ一メートル)。 毎年十月二十一日から二十七日まで開帳して人々に拝ませる。その間参詣人が群集し、旅商人がやって来る。 寺領は二十石。地蔵堂の西側に金毘羅社がある。その間の道の左右に空掘のあとがある。布川城の大手だった所であろう。 ここで毎年八月十日に祭礼相撲があって賑う。
べったりと人のなる木や宮相撲 一茶
左図)徳満寺地蔵堂左側に建つ茨城百景指定の記念碑
右図)同所に建つ小林一茶句
段々に朧よ月よ籠り堂
来見寺は竜海院と号す。開山は獨峰和尚で天正十年(1582)に入滅した。下妻多宝院の末寺で曹洞宗、寺領は三十石である。 昔はこの寺を頼継寺といった。これは豊島紀伊守頼継(よりつぐ)の建立だからである。天正十八年(1590)家康公御入國 の後、御巡見の折、上意をもって府川を布川と改め、頼継寺を来見寺と改めたのである。
この寺の住職日山は、昔遠州にいた頃家康公の知遇を得ていたので、再会の喜びは一入であった。そこで公は、
庭前の小さな松を御所望になり、代りに梅の木下された。今江戸城矢来御門の内に大木があり、来見寺には”松替の梅”と
いう古木が本堂の前にある。日山が無欲なので、この梅に御朱印地三十石を賜ったという。このことから、
布川の地を雅に”松替の里”と呼ぶようになった。
「来見寺物語」と新築の記も
どうぞ。