利根町の歴史

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つかみどりのはなし

利根町史編さん委員 芦原修二著

利根町生涯学習だより第29号利根町昔ばなし第23話より

ことしの正月もあっちこっちで初売りということでクジびきやったりしてたどなあ。箱の中さ手つつこんでクジをひいたり、十円玉の「つかみどり」なんてところもあったなあ。この「つかみどり」のはじまりがヨ、利根町なんだっていうよ。

寛保2年(1742)というから、258年もむかしのこった。関東地方を大あ>らしがおそってなあ、利根川も小貝川も新利根川も土手がずたずたに切れちゃったんだ。寛保の満水といって有名なんだよ。幕府は、全国の大名たちに命令して、土手をなおさせた。新利根川をなおせと命じられたのは、鯖江の殿様だった。鯖江というのは今の福井県でナ、眼鏡つくりで日本一といわているところなんだよ。

鯖江は五万石の大きな藩で、当時の殿様は間部詮方という人だった。詮方は家老の植田佐仲という人を現場監督に派遣したんだど。来てみると、あっこっちで、いろいろな大名たちが人をあつめて工事をやっていっぺね。働人がたんねんだよ。いろいろ手をつくしても人があつまんねんだ。働く人しに工事はできっこねえや。あたまをかかえだ植田佐仲さん、長げいこと考えこんじゃった。

「どうしべ、どうしべ」やがて思いついたことがあってナ、家来たちを呼ぶと、こぶしが入るほどの穴をあけた四角い箱をつくらせたンだ。中さ銭っいっぺえいれてなあ。「手え、にぎりとれるだけ、とっていいど」と働く人たちにいったんだ。これが評判になって「おれこそいっぺえ、にぎりとってやろう」と手が大(でか)くて、がんじょうな男たちがつぎからつぎへあつまってきた。

こうして、新利根川の工事はどんどんすすんで、殿様の>間部詮方は幕府からおほめのことばをいただき、植田佐仲も、殿様からごほうびをもらった。そして、このほまれを末ながく残そうというんで、羽根野の稲荷様に記念碑をたてた。今その記念碑は羽根野の諏訪神社の境内にあるんだ。利根町の羽根野で、つかみどりがはじまったという、めでたい話は
はい、これまでです。

管理人から補記
{この「昔ばなしシリーズ」では当地の方言を使用しております。現在も同郷人の間では全くこのとおりなのです。「よその人にはわがんめナ(分からないでしょう)、しゃんめヨ(仕方がない。−まあ、いいっか。)」といった心境てす。果たして、このページへの来訪者に分かるかな?}
利根町史1によれば、徳川幕府による築堤と新田開発は同時に自然災害を伴っており、幕府は下利根川流域に自普請組合を結成させ、普請や費用の分担を決めたのである。そのなかに特定の大名に普請の手伝いを命ずる大名手普請があった。

(江戸を水害から守るため、また物資輸送の舟運を計るために利根川の流れを従来の東京湾ではなく銚子口へ東遷した。以来下利根川一帯は頻繁に洪水に悩まされことになったのである)

寛保2年の関東大洪水に伴い幕府は西国筋の大名10人に手伝い普請を命じた。このとき新利根川(利根町から霞ヶ浦までの直線川)は越前鯖江藩、下利根川は備後福山藩の担当となった。上記「つかみどり」はこの時の話であり、人夫不足事情も理解出来るし記念碑年代などと合わせ考えても、真実性 の高い話でありますので民話としないで利根町の歴史の項目に納めました。
記念碑写真は利根町史より

追補)この寛保2年は年表によれば、8月畿内大風雨と記載されており、関東地方も南東風による大雨があったものと思われます。

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