利根町の歴史

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赤松宗旦著「利根川図志」に見る近世の利根町概観 赤松宗旦と「利根川図志」 「利根川図志」著者年譜

利根川東遷物語―続編

利根川東遷物語―続編として補筆しました。

第1章 徳川家康関東に移封される

江戸城下町形成

豊臣秀吉による小田原の北条氏討伐(天正18年(1590))に、徳川家康は3万の兵を率いて先鋒をつとめた。 7月小田原戦に勝利すると、その功として北条氏旧領の武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野の関東六カ国 240万石への移封を命じられた。 家康が居城として選んだのは軍事上関八州に睨みがきく大田道灌が築いた城下江戸城であった。
1)1590年(天正十八年) 2月、小田原征伐の先鋒として駿府を出発する。
2)7月、  北条氏降伏し、小田原城開城。
3)8月1日、3万の兵は駿府に引き引き上げることなく江戸城に入城。

しかし、江戸は関東平野の中央に位置してはいるが、暴れ川として名高い利根川に近接し、洪水の脅威に さらされる地帯でもありました。
しかし、軍事上から考えるとき、江戸城は足利幕府八代将軍義政が、関東北部および東部に勢力を張る 古河公方足利成氏に対抗する橋頭保を築くために、長禄元年(1457)大田道灌に命じて築城させたという、いわれのある城でした。

江戸とは、江戸城とは

当時の江戸及び江戸城は、どのような立地状態かについて:Turezure Garyuホームページ―「第22章 家康の関東移封」に、 詳細な説明がありましたので、引用させて頂きました。

一方、当時の江戸は、江戸氏や道灌が支配していた頃の地形とそれほど変わってはいなかった。 江戸城間際まで日比谷入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海だった。 江戸湾沿いには多くの汐入地が点在し、満潮になれば海水が入り込み、潮が引けば、葦や萱などが生い茂る湿地帯で、 背後には、山や武蔵野の林に覆われた原野が広がり、平坦な土地は極めて少なく、大勢の人が生活するような場所ではなかった。
家康は関ヶ原の戦いが始まるまでの10年で、老朽化していた江戸城の普請から手をつけ、神田山を削り、 日比谷入江を埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。後に、世界でも有数な都市となる江戸の都市計画の 基本を策定した。特に、江戸城のまわりには多くの濠割や道濠や小名木川などの運河をつくり、行徳の塩を運ぶ水上交通網を整備した。
当時の江戸城は、ひなびた風景の中に、まさにポツンとある小さな平山城であった。 家康は、譜代、旗本たちを知行所の名主の家や寺院に住ませ、そこから城へ通わせた。 入国後しばらくたって、関東内に配置した譜代の大名に普請役を課して、城の拡大工事にとりかかった。

第2章 家康は伊奈備前守忠次を関東郡代に任じ、関東一帯の治水工事に当たらせた。

利根川東遷年表―第1段階

文禄3年(1594):会の川の締め切り
文禄3年(1594):浅間川の拡幅

第1図 (1)会の川の締め切り―文禄3年(1594)

図は、江戸川上流だより(国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所HP)より、以下同順。


利根川東遷年表―第2段階(上流地区)

以後27年経過
元和7年(1621):新川通・赤堀川の開削(ただし、当初の川幅は僅か7間)
          新川通については、低湿地を逆Uの字に大きく迂回し蛇行していた川を、
          浅間川の呑口から栗橋まで、約8Kmを直進河道にした人工河川です。

      寛永2年(1625):新川通を3間拡幅
      寛永6年(1629):鬼怒川付替え      
      寛永7年(1630):小貝川付替え      
       寛永18年(1641):赤堀川の新規開削
第2図   寛永18年(1641):江戸川、逆川の開削


利根川東遷年表―第2段階(下流地区)

第3図 寛永6年(1629):鬼怒川付替え・・・寛永7年(1630):小貝川付替え


利根川東遷年表―第3段階()

第4図 承応3年(1654):赤堀川の増削・・・宝永2年(1705):増削



赤堀川は栗橋のすぐ下流の権現堂の分岐点から、いまの利根川沿いに7Km下流の境町までの河道のことです。
この川を掘ったことにより利根川が常陸川(広川)と結び銚子河口までの流路が開けたことになったのです。

新利根川の開削と締切り(寛文3年〜9年)

目的

利根川の流路を押付けから霞ヶ浦までの、8里8丁ほぼ一直線に掘り割って本流とし、下利根川は 布川村と布佐村の峰合いを〆切り手賀沼と印旛沼の干拓を可能にしようというものであった。

寛文元年(1660年)3月、下利根川の流域の開墾調査として時の大目付高木伊勢守、勘定組頭能勢の日向守、 代官伊奈半次郎忠克ほか数名の係り役人が出張し、布川村に役所を置いた。そして新利根川掘削工事を企画し、同年春 工事に着手、押付けから香取郡十六嶋を経て霞ヶ浦に至る8里8丁の遠距離を掘削した。川敷にかかる人家は笠神埜野 (後の埜原新田)、大瀬谷原(のちの布鎌新田)、伊佐部などへ移転させ同4年竣工した。
その後、布川(〆切り)・布佐高台山下で利根川の締切りにかかったが、水流が中々強くて工事がはかどらなかったが、竹袋村組頭助左衛門の仕法で締切りが完成した。時に寛文6年大晦日であった。 ところが、新利根川の水流がよく、相馬・河内郡内の新川付きの村方は田方の水保ちが悪く旱田になったので、10か村が 難渋願いを出し、これが官に聞き入れられて、寛文9年春、本利根川締切堤防は取り払われ、新利根川は上流押付に おいて閉塞して旧形の河川に復した。(この項山本忠良著「利根川と木下河岸」より)

利根川―利根町地先決壊史

年表

利根川決壊年表

下記決壊史は、年代順ではなく、小貝川の高須、豊田(龍ヶ崎市)から始まり、利根川は上流域より順に 記載しました。但し、利根町に被害をもたらした災害誌です。

決壊箇所と湖沼名-年代順

決壊箇所 湖沼名 年代 西暦 記事
 高須橋上流  昭和56年 1981 テレビで放映
 高須橋下流  昭和10年 1935 
 豊田  天保6年 1835 
 豊田  安政5年 1858 
 豊田  弘化3年 1846 
 豊田  明治29年 1896 
 豊田  明治40年 1907 
 豊田  明治43年 1910 8月11〜13日2個の台風が相次いで接近・上陸し、東日本各地は激しい水害に見舞われた。荒川、
利根川の堤防が寸断されるなど、全国の死者・行方不明1383名となり、天明3年の水害と並び称される大水害となった。
藤代町大留  昭和25年 1950小貝川右岸ですが、翌26年5月建設省では布川町半分を河底にする「小貝川背割り堤案」が決定発表。布川町では、山田正雄町長を隊長とする「郷土防衛隊」を組織して、 反対闘争展開した。
 羽根野-琴平橋下  天明6年 1786場所が分かりずらいので、 たぬぽんさんHP参照
 羽根野  安政5年 1858 
 清五郎巻 ひょうたん沼 嘉永2年 1849現在:運動公園(押付)
 押付本田  宝永1年 1704 
 押付本田  天保6年 1835 
 押付新田  寛保2年7月 1742 
 徳満寺裏 新地沼 天明1年7月 1781 利根町にとって、天明の大飢饉の始まりとなった。
天明3年に浅間山大噴火による冷害不作が続く。
加えて、天明6年羽根野琴平橋下決壊で、利根町史によれば、上曽根地区では、翌年春草木の新芽が出るまで、飢餓状態が続いたと言い
半数の餓死者を出した。
 〆切(現役場下)  宝暦7年 1757 
 三番割 道勾沼 天保10年 1839 「くみっけ(かえぼり)」の様子を見て、幕末頃の人狂歌師抜バッソン作: 「どうこうと 思案はすれど 水は干ず 沼が深いか 欲が深いか」
 三番割 すりばち沼 明治31年 1898 
 三番割  明治39年 1906 
 三番割 庚戌沼 明治43年 1910 
 三番割 文左衛門沼 享保11年 1726 
 中谷 無量寺沼 文政11年 1828釣堀後集会所
 中谷 だんな沼(二ッ沼) 年不明  
 論所排水口の破堤  昭和56年 1896 
 加納新田  明治29年 1896 
 加納新田 安兵衛沼&蚊帳沼 弘化3年 1846現存
 参考掲載    
 我孫子市布佐都 切レ所沼 明治3年 1870 現在埋め立てられ新地名:「都」
 旧龍ヶ崎街道-桜土堤 中沼 年不明  現存:魚釣りで賑わう
     

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