利根町の歴史

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利根川を替えた話―東遷物語

前置き
江戸幕府は何故日本屈指の大河川である利根川の流路を、古来の江戸湾から銚子外洋へ移し替えたか?。実のところ、私もこの記事を書くまで知りませんでした。そこで、勉強がてら諸資料の助けをお借りして、私なりのストーリーを作ってみました。お付き合い下さい。

第1章 家康の居城選びとその背景

豊臣秀吉は天正18年(1590)7月小田原戦に勝利すると、この戦いの先鋒をつとめた徳川家康に北条氏の所領であった関八州を与えた。家臣の中には先祖代々住みなれた三河の地を離れることに不満の声があったが、家康は心に期するところがあって素直に命令に従ったのでした。しかもその居城として選んだのは、由緒ある鎌倉でもなく、また小田原でもなく江戸城だったのです。

たしかに江戸は関東平野の中央に位置してはいるが、暴れ川として名高い利根川に近接し、洪水の脅威にさらされる地帯でもありました。その上東側は低湿地、西側は水利の悪い武蔵野台地の荒地帯で、城も小さくおよそ関八州の総帥の居城としては似つかわしくない場所だったのです。

しかし、軍事上から考えるとき、江戸城は足利幕府八代将軍義政が、関東北部および東部に勢力を張る古河公方足利成氏に対抗する橋頭保を築くために、長禄元年(1457)大田道灌に命じて築城させたという、いわれのある城でした。

秀吉の家臣として同格の立場にあった安房の里見義康、常陸の佐竹義重、下野に宇都宮国綱などが勢力を持っていたので、これに対峙するための選択だったようです。江戸入城後の下総、上総、下野への有力武将の配置がこれを物語っています。府川城にも常陸佐竹氏への備えの一角として松平信一5000石が配置されています。

さらには遠く離れてはいるものの強大で野心満々の仙台伊達氏から江戸を守るねらいもあったと言われています「利根川を江戸城の大外堀としての考えから江戸から遠いところへ押しやり伊達氏に対して備えた。」というのが通説になっているところです。

舟運開発の観点からは、利根川を東へ押しやれば常陸国の常陸川(銚子に至る現利根川の下流域)にも通じることができ、舟運路を開けば関八州の中心都市となりうる格好の地だったのです。さらに東北方面からの物資輸送も銚子・常陸川経由で江戸へともなれば、従来の房総外洋回りとは格段の差であり輸送力の増大は計り知れないものがあります。

この天正年代河川改修を伴った城下町造りが各地に見られ、越後上杉家直江山城守兼続による信濃川の改修は、中の口川を信濃川から分流し新潟平野を用水河川、舟運河川に造りあげました。加藤清正は熊本城築城時に、白川と坪井川を改修し城の守りと河川舟運確立しています。豊臣秀吉も河川改修で伏見を安定した港津にし、京都と大阪を結ぶ淀川舟運を確立しているのです。

家康や伊奈忠次はこのような舟運を利用した城下町造りや河川の瀬替え(新たな流路を造り河川を変流させる)を見聞きしている筈であり、又自身も経験(木曾川修復)したようです。

苦難な生涯をひたすら耐え忍び天下取りのチャンスを窺っていた家康にとって、関東240万石の新領地まさに宝の山であり、この経営に賭ける意気込みにはただならぬものがあったようです。そして居城に江戸を選んだことは当然舟運や利根川の瀬替、新田開発等は頭に入っていたことでしょう。

第2章 家康の江戸城入府

同天正18年8月朔日(1590)江戸城に入城。徳川家では、これを八朔といって末代迄記念日にしたとか、そして、江戸入城を「江戸討ち入り」と称するなど並々ならぬ決意が伺われるのであります。

以来、家臣を督促し、領国造りに励み勢力をたくわえ、遂に10年後の慶長5年9月(1600)には天下分け目の関ヶ原の合戦の大勝負に挑み、この戦いに勝利して天下第一人者の地位を不動のものにしました。慶長8年2月征夷大将軍に補せられ江戸に幕府を開き、更に12年後の元和元年(1615)豊臣氏を滅亡に導き、待望の天下統一を果たしたのです。いわゆる元和偃武(えんぶ)が実現され、以後265年間、戦乱の無い世となったわけです。しかし家康が江戸に入府したとで、その後の関東地方は大変貌をとげることになります。

第3章 江戸城下町の設営

戦国末期頃から諸大名は城下町の繁栄策に腐心した模様で、新しく興りつつあった商工業者に安住の地を与え商品流通を計ったことなどもその一つですこのような時代の流れを受けて、江戸時代初期にこの傾向はいよいよ著しくなり、都市建設は領主権力による城下町の設営となって来たのです。

元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣が亡び、徳川の天下が決定的になると、旗下の将兵を江戸に集めるため、居住地の造成が必要になりました。つづいて寛永11〜13年(1634〜1636)、参勤交代制度の確立で諸公の妻子が江戸に居住しそれに伴う江戸在住の藩士も少なからぬ数になりました。

各藩は江戸の屋敷を設営するに当たって、富力、財力を尽してすこぶる華美な屋敷をを造ったのです。桃山時代の豪華、華麗な風習が残っていたこともありますが、一つには、江戸幕府の歓心を買わんがためであったといわれております。江戸の町づくりは、当時日本全土の経済の総力をあげて行われたようです。

しかし、武士団の集居だけで都市は成り立ちません。江戸は武士の都と言われたが、武士団の生活を支える町方の人口は、武家人口にほぼ等しかったとされています。すなわち城下町は武士団を中心にその生活を支える手工業者、職人、町人その他多くの町方人口からなる消費地なのです。江戸はその最大のものとして近世初期に急速な発展を遂げてきました。

100年後の亨保6年(1711)の調査によれば江戸町方人口は50万人、これに調査対象外の武家人口と寺社方の人口を加えると、100万から120万人の人口が推定出来江戸は当時としては世界第一の人口を抱える程成長したのです。

第4章 幕府の治水・洪水対策

現在の利根川は、群馬県の北部の三国山脈に源を発し、関東平野のほぼ中央を、ななめに、流れ、千葉県の銚子で太平洋に注ぐ。全長は322Kmで信濃川につぐが、流域面積では1位である。江戸川は、全長、およそ50Km。関宿で利根川から分かれ、ゆるやかに蛇行しながら南下し、東京湾にそそいでいます。

徳川家康が江戸に入った頃、利根川中流の栗橋付近(埼玉県)から、下流にそい東京湾にかけての地域は、利根川をはじめ、荒川や渡良瀬川が、入り乱れて流れ、たびたび洪水にみまわれた。洪水の地域は、江戸の下町や現在の江東区・足立区・江戸川区・埼玉県北葛飾郡・南埼玉郡などにも広がっていました。

家康は伊奈備前守忠次を関東郡代に任じ、関東一帯の治水工事に当たらせた。その工事とは、当時栗橋付近から南流し江戸湾に注いでいた利根川の水路を東に移す。そのために台地を切り開いて赤堀川とし、点在する湖沼をつなぎ常陸川水系(現在の鬼怒川・小貝川・霞ヶ浦水系の総称)に結びつけて銚子に流す。さらにその放水路として、太井川(太日川)を改修し、現在の江戸川を造るというものでした。太井川の中流は、現在の江戸川のやや西を流れていた川で、庄内古川とも呼ばれ上流は渡良瀬川です。

命を受けた伊奈家は親子代々数次にわたり瀬替等河川改修工事を実施した。その結果わが国第1位の流域面積を有する利根川が誕生することになったのです。工事は文禄3年(1594)に始められ関東郡代伊奈備前守忠次(1550〜1610)その子二代忠政(兄)、三代忠治(弟)と受けつがれ、実に60年もの歳月をかけて承応3年(1654)に完成しました。

利根川東遷事業の完成した結果、昔の香取の海は土砂の堆積が急速に進んで陸化し、現在のような穀倉地帯が形成されていったのです。では工事はどののようにすすめられたか?について、諸資料の助けをお借りして話を進めます。

(第1図)―1000年前の利根川等河川図

第5章 利根川の東遷事業

当時の状況説明:羽生市川俣地区の利根川は
(1)会ノ川筋利根川(南利根)と
(2)浅間川筋利根川(東利根)の二つに分流し、さらに浅間川筋利根川も群馬県大高島と埼玉県飯積間から北に分流し
(3)合ノ川となり、谷田川(北利根)を合流し渡良瀬川に通じていた。また、大利根町左波地点で南へ向きをかえた浅間川の下流北側の
(4)埼玉県北川辺村のほぼ中央部地点から分流し、低湿沼沢地帯を逆Uの字に大きく蛇行して現在の利根川と渡良瀬川の合流点である本郷で渡良瀬川に合流した。この4本の川が当時どれが幹川であったかについては、現在学説の分かれる所になっています。議論はさておいて、大工事が開始されたのです。

  (第1段階)

会ノ川を締め切る。 文禄3年(1594)家康の四男で忍城主松平下野守忠吉が家康の命で行ったとされています。異論としては、忍城付近は、忍の最も重要な水田地帯であり、此処を締め切って利根川の洪水流入を防げば、これらの先進地は安定するし、さらにその地先に新しい水田開発を期待できるので、領主の判断で行ったとするものです。それに当時果して会の川が利根川の幹川であったか?が問題になるのですが、現在、利根川東遷の第一歩としています。

つい先日、建設省利根川下流工事事務所副所長さんの公開講座に接する機会がありましたが、利根川東遷事業についての説明は下記のとおりでした。目的―舟運の確保、新田開発、江戸の洪水防御等会の川の締め切り(1954)新川通、赤堀川の開削(1621)江戸川、逆川の開削(1641)赤堀川の増削(1654)

  (第2段階)

新川通の開削と赤堀川の開削。元和7年(1621) 会ノ川を締め切ってから27年も経過してから行われました。新川通については、第3章の(4)で述べた低湿地を逆Uの字に大きく迂回し蛇行していた川を、浅間川の呑口から栗橋まで、約8Kmを直進河道にした人工河川です。ただし、当初の川幅は僅か7間で、寛永2年に3間拡幅しさらに宝永2年に(1705)に増削している。これについて大熊 孝氏は、新川通が利根川の幹川になったのは天保9年合ノ川を締め切ってからと言っています。

赤堀川は栗橋のすぐ下流の権現堂の分岐点から、いまの利根川沿いに7Km下流

の境町までの河道のことです。この川を掘ったことにより利根川が常陸川(広川)と結び銚子河口までの流路が開けたことになったのです。

利根川の瀬替といわれる諸工事の中で、洪水の影響を全くうけていないところ、あるいはかって川が流れたことのないところといってもよいが、そういう処女地を掘って新しい河道を開いたのは、赤堀川と江戸川上流だけであります。また流水の一部ではあるが、流域を全く変えて流すのも赤堀川だけなのです。従って技術的に開削が難しく江戸幕府の利根川政策の最大の焦点が赤堀川にあり"利根川の瀬替・東遷物語"のやま場もまた赤堀川の開削にあったのでした。

その赤堀川もまた、一度では通水できなかったのです。川妻村古文書には次のように書かれています。
元和7年(1621)幅7間の赤堀川を掘ったけれども、利根川の水を常陸川に分水することはできなかった。これを一番掘りといっている。寛永12年(1635)幅3間を広げて二番堀と称し、このとき新川通も拡幅している。しかし、依然として赤堀川の通水は失敗に終った。そして20年後の承応3年(1654)川床を3間堀下げて深さを増し、はじめて利根川の水が赤堀川を流下して常陸川に入った。これを三番堀といっている。

この承応3年はじめて通水をみたという点ではみな一致し、この時点をもって利根川の「幹川」が赤堀川を経て常陸川に移り、瀬替・東遷物語が完結するというのが大方の意見で、今日広く一般に信ぜられている。

  (第3段階) 鬼怒川と小貝川を分離

現在の銚子に至る利根川下流は常陸川とよばれ、また、その上流部はいまの江戸川分派点付近で利根川に接近していたが、利根川とはまったく別の川であり、鬼怒川や小貝川の末流を合わせて沼沢地を形成していました。(下図参照)

鬼怒川付け替えの図

伊奈一族に与えられた課題は、関東平野に水深が深く安定した舟運網を確立し、埼玉平野や常陸川沿川の低地帯を開発することであり、かつそこを利根川の洪水からどのように守るかにありました。

最初に開削された舟運路は利根川と荒川の末流で北から南に流れる隅田川と、中川を東西に結ぶ運河小名木川でした。この水路は家康江戸入府直後に掘られ続いて新川を堀り、古川(行徳川)と結び行徳塩(明治まで関東の塩の重要供給地)を江戸に運ぶことにあったとされています。

また、幕府は銚子における名洗浦の堀割の開削を画策し、失敗に帰したが、東北諸藩との物資交流、とくに江戸への米穀輸送に常陸川を利用しようとして銚子を重要視していたことが窺えます。さらには、八町河岸(烏川出口)に河港を設立し、高崎・前橋方面から集積した物資を舟運にて江戸へ。これら一連のことを考えあわせますと、小名木川開削は、江戸と利根川、常陸川を結ぶ関東内陸運河形成の第一歩であったといえるのです。

ところで、この運河網を造るにあたっての最大の問題は、利根川と常陸川をどう結びつけるかにありました。当時、常陸川上流部は、鬼怒川を合流するまでは、谷地をの水を集めた流れであり、小舟がやっと通航できるにすぎなかった。この常陸川が大きく変貌するのは、まず寛永6年(1629)の鬼怒川の付け替えであります。

第6章 鬼怒川の付け替え

鬼怒川は、栃木県のほぼ中央を北から南に貫流して茨城県に入り、現在は大木丘陵と呼ばれる台地を堀り割って守谷町野木崎で利根川に合流している。この大木丘陵の開削は寛永6年(1629)に行われました。それまでの鬼怒川は、下妻や水海道で鬼怒川とほぼ平行に流れる小貝川に合流しながら大木丘陵にぶつかってからは南東に流れ、竜ヶ崎の南方で常陸川に合流していた。大木丘陵の開削によって、鬼怒川の常陸川への合流点は約30Km上流に付け替えられたのです。

鬼怒川と小貝川を分流し、その小貝川を利根川に合流
 (1)寺畑(現在谷和原村)で小貝川と鬼怒川を分流した。
 (2)鬼怒川を坂戸井(野木崎)でこの常陸川に注ぎこませた。(上述)
 (3)下流の布佐、布川間には、わざわざ狭窄部(幅300m以下)を作った。
 (4)その上流部で小貝川を合流させた。

これらの工事はこれまでいわれてきたように、江戸を水害から守るためであったと単純に見たのでは、あまりにも不合理であります。また、わざわざ困難な、台地をを掘り割るというような方法を、なぜ坂戸井、戸田井布佐の3け所でやったのかも理解しかねるものです。

こうしたことを考慮に入れて伊奈氏の方法を見ていった結果、近年は、利根川を水運の大動脈にするべく、企画し実施した工事だったのだという見方が大勢になっています。そのとおり、常陸川の流量の少なかった30Km区間に鬼怒川のの流量が加わり水深が増大し、大型船が舟航し得るようになったのでした。

これに前後して行われた第2段の赤堀川の通水完成をもって、銚子から常陸川を遡って関宿にいたり、そこからいまの江戸川(1641年に開削した人口河川)を下り、例の新川、小名木川を通って江戸に至る関東地方の大動脈が完成しました。しかもこの交通路は、伊達政宗の行った、北上川舟運網との連携において、関東地方と東北地方を結ぶ大動脈になりました。

工事が完成した結果、江戸の大人口の食料を賄い、そして、江戸を水害から守る目的はかなり達成されたことになります。、しかし、自然の摂理に反した利根川流路の変更は、その牙を現利根川下流域に向けて来たのです。 ―以来明治の新方式による利根川改修(現在丁度100周年)が施されるまで度重なる洪水に悩まされることになったのであります。

なお、利根川変流工事詳細図その他について、建設省利根川上流工事事務所ののホーム・ページをお勧めいたします。

   参考引用文献
   吉田東伍著   「利根川治水論考」      崙書房    栗原良輔著   「利根川治水史」       崙書房    小出   博著   「利根川と淀川」       中公新書    大熊   孝著   「洪水と治水の河川史」    平凡社    金井忠夫著   「利根川の歴史」       日本図書刊行会    鈴木久仁直著  「利根の変遷と水郷の人々」  崙書房    北野道彦・相原正義共著 「新版利根運河」   崙書房    建設省利根川下流工事事務所         「利根川下流パンフレット」      利根町史編纂委員会編            「利根町史」      有難うございました。

図参照
利根川東遷以前は布川台と布佐台、羽根野台と小文間台とは陸続きだった。

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