利根町の歴史

利根町50年表 花輪台のビーナス 利根町の昔 つかみどりの話
利根川東遷物語 利根町地先決壊史  つく舞幻想 鬼怒川とホトトギス 一茶と利根町
赤松宗旦著「利根川図志」に見る近世の利根町概観 赤松宗旦と「利根川図志」 「利根川図志」著者年譜

利根町の昔

はじめに
利根町の昔をこれから連載でお知らせして行きたいと思います。
資料の少ない中世の出来事は、殆ど「東国戦闘見聞私記」(下野皆川 城主が将軍家光に語った軍談戦記を、軍談講談の祖神田氏が脚色)に よること になります。史実として全面的に信用することの無理を知り りながらも引用 される事が多かった軍記本で有ります。近年古文書・ 碑文・過去帳等か ら郷土史研究家によて、史実の有無の解明の努力が 為されていますが、このホームページでは上記戦記本の範疇内の 「利根町の昔」と言うことになります。あくまで概要をお伝い出来た ら幸いと願って掲載しました。   また、引用文献で有っても読みやすいように「ひらがな」書きにした り、「、」を「。」に変更した個所等があります。

 縄文時代
縄文早期と見られ「花輪台のビーナス
と賞揚されている我が国最古の土偶、早尾花輪台にて出土。
縄文人の美意識がみごとに具 現されたもので教科書にも掲載。
BC7500年、早尾花輪台に縄文早期人居住
BC4000年、海面上昇進み、花輪台縄文人移住
BC3500年、海退現象はじまる
BC2500年、立木に縄文後期人居住はじむ
BC-500年、布川に縄文晩期人居住はじむ
 弥生時代
 古墳時代
  350年、大平に稲作社会出現か
  500年、奥山古墳作られる(後期古墳時代)
 白鳳時代
  698年、蛟もう神社創建(文武2年)
 奈良時代
 平安時代
  909年(延喜9年)下総国騒乱す
  916年(延喜16年)下野国藤原秀郷を流す
  927年(延長5年)「延喜式」に蛟もう神社載る
  939年(天慶2年)平将門の乱
 
 荘園時代から豪族派生時代にー時代背景として

「相馬伝説集」寺田喜久編著(大正11刊)序文を抜粋しました。
(荘園について)・・・国司は最初朝廷にて任命してその国に遣わし 始めたものなるに、藤原氏の盛んなる頃に及ぶと、任命されてもその 国へは赴かず土地の庄屋に任じていた、ために地方の政治は乱れて豪 族起こり、王制の租調、位田、職田、賜田等に破れて、私に人に譲ら るゝもの又は人に併呑されて、国にもあらず郷とも異なる荘園を生ず るに至った。

ここにおいて国司は其実なきものと化し荘園益々多きを加え、平氏極盛 の時代は荘園天下に半するに至った。而して平氏亡びて源氏起り頼朝 が府を鎌倉に開くと、藤原秀郷の末裔と称する下河辺行平と云う人古 河に居住した。其後足利氏に至り成氏は関八州を領した。明応6年成 氏は卒し5世義氏まで此処に住していた。永禄のころに至っては群雄 割拠となりて・・・

(記事1)旧茨城県北相馬郡と中相馬(現我孫子市周辺)は平将門が 開いた土地とされ、将門滅亡(940年)後は、その叔父平良文の所 領となり嫁家相継いで伝えて来た。そして古くから伊勢神宮内宮の御 厨(神宮が天皇の特別の許可を戴いて、御厨の収入で、神宮の経営に あてた神領地であり、内宮向と外宮向と2通りある)であった。

下総の国相馬郡は千葉氏の領地として受け継がれたが、この 頃は御厨 の不輪権(国税免除)が確立していなかった為か千 葉常重は国税不納 の罪で捕らえられ、罰を受け賠償を納め許 された。

(記事2)
相馬御厨寄進のこと。(当時この地の支配者が誰かに関係有り)
   1)千葉常重(常胤の父)1130年(大治5年)
   2)源―義朝(頼朝の父)1145年(天養2年)
   3)千葉常胤(頼朝の重臣で頼朝挙兵に功績有り)1146年
    (久安2年)に寄進し管理を次男の相馬次郎師常とした。
     この寄進状の中に利根町内の地名が記載有り。

 (記事3)何故このように3回も寄進が行われたかの経緯に就いて 及び師常が相馬姓を名乗るに至る経緯に就いて利根町史3巻で詳細に 記述あり。又、記事の多くは蔵重一彦氏(郷土史研究家・城郭研究家で 元気象測器製作所長)著の相馬御厨再発見より引用させて頂きました。

ここにおいて国司はその実なきものと化し荘園益多きを加え、平氏極 盛の時代は荘園天下に半するに至った。平氏亡びて源氏起り頼朝が府 を鎌倉開くと、藤原秀郷の裔と称する下川邊行平と云ふ人古河に居住 した。

 1180年(治承4年)源頼政、源朝頼相継いで挙兵

 1244年(寛元2年)豊島頼安が摂津国から来て村を拓き、 地名を府川と称す(とされております)
 1286年(弘安9年)島津久経妻妙智尼相馬御厨内所領安堵
 1317〜9年(文保)島津氏譲状「下総相馬内ふかわの森」
 1336年(貞治2年)島津道鑑譲状に「符川、押手」両村あり
             その後足利氏に至り成氏は古河に居住し関八州を領した。
             明応6年成氏は卒し5世義氏までここに住していた。

(記事) 関東管領上杉氏の時代から古河公方の時代、この時期「府 川城の豊島氏」は、下総国府、常陸国府の陸の要所、また常陸川、衣 川の水上の要所として関を設けたり強力な豪族の下に付き、その要請 に応え武功を挙げて勢力を拡大していったとされている。

永録の頃に至っては群雄拠居となりて、小文間城主一色宮内政良、布 川城主豊島紀伊守、布佐台龍毛城主豊島半之允、中峠根古屋城主河村 出羽守、手賀城主原筑前守、柴崎城主荒木三河守、我孫子城主我孫子 五郎、守谷城主高井十郎、相馬小次郎、大鹿城主大鹿左衛門、菅生城 主菅生越前守、 横掘能登守等一天地をなしてゐた。

(記事)狭い北相馬郡と我孫子市、沼南町の所に諸将が対峙し、大々 名小田原北条氏、千葉の千葉両家里見家、常陸佐竹氏等の夫々の影響 の下で対戦した。  (1999,1,14記)

当時府川城主の勢力はどの程度のものだったのか?また、戦いの様相 については蔵重一彦氏(測量士でもある)の調査研究による労作「北 相馬郡五城址解説」から著者の見解を抜粋してご披露したいと思いま す。
著書の中ので(8)「石高と城の総面積」について次のように推論 を下している。

領主が支配している土地から取れる米の収量で賄える馬と武士の数は 決まってくるし、馬と武士の数がきまれば、城の広さと石高は比例関 係にあることが想像される。当時の主要兵具は馬で、これは広い面積 を必要としたであろう。そこで北相馬五城各郭の面積と総面積と石高 を対比した表を下に掲げた。尚石高の大きい土浦と弘前も参考に示し た。

                 石高    本丸    二の丸  三の丸  総面積ヘクト
  筒戸城(水海道市)   1.2万石  190アール 585アール なし    7.7
  守谷城(守谷町)    3.2     236     221     362    18.2 
  高井城(取手市花輪) 2.0       27     230以上  なし     2.5?
  大鹿城(取手下高井)  ?       24       60     940    10.2 
  府川城(利根町)    2.0       57       34     1740    19.3 
  土浦城(茨城県)    7.8       70     450     2800    32.2 
  弘前城(青森県)    15.0     366     746     4968    60.8 

(記事)蔵重一彦氏調査(私も標識のポールなどを持ってお手伝いさ せて 頂きました)によれば下記のとうりになります。
二の丸=出城(現利根町役場)を西端に、空濠を隔てて東に本丸(現 地蔵堂北隣)、三の丸(布川神社まで)東西1粁、南北最大巾500 米で豊島台全域を城郭にしていました。1999.01.16記

(茲に、永禄、天正時代(1558〜1591)当時の常陸國南部(茨城県南 部)と下 総國(千葉県北部)の諸豪族が戦争に明け暮れした状況を 語る、軍記本「東國 戦記実録」が御座います。その中から特に、中 國の三国志で名高い諸葛孔明の 日本版とも言える”軍師栗林義長” を主人公にした本を、高塚 馨氏(利根町 立文間小教諭)が分かり 易く書いております。常陸・下総の戦国時代を知る一つ資料としてご 紹介致します。「栗林義長物語」をどうぞ!それ は忠五郎が一 匹の狐を助けたことから始まった。)

以下、再び蔵重一彦氏の「北相馬郡五城址解説」より抜粋致しました。
ここで、範囲を広げ近隣諸将の騎士数、推定石高を示した。
(尚、ここに揚げる数値は、後年の天正9年に小田原の北条氏の命令 で千葉氏討伐のため布川城に到着した常南連合軍(藏重氏仮称)の栗 林、相馬、由良、岡見、豊島の騎士数と推定石高である。*印は北相 馬郡の諸将である。

       大将名      (城名)        騎士数       推定石高
      栗林義長    (牛久)      400騎         1,6万石
      高城兵庫    (小金)      700騎         3,7万石
      荒木三河    (柴崎)      300騎         1,2万石
    *相馬治胤    (守谷)      800騎        3,2万石
    *本田越中    (筒戸)      300騎        1,2万石
    *相馬十郎    (高井)      500騎        2,0万石
  *本田左衛門  (高井)    300騎        1,2万石
      月岡玄蕃    (板橋)       300騎         1,2万石
      長谷左衛門  (土浦)      500騎         2,0万石
      土岐大膳    (竜ヶ崎)    500騎          2,0万石
    *豊島頼継    (布川)      500騎         2,0万石

 以下も全文”藏重一彦著北相馬郡五城址解説”によるものです。

常南地方の豪族の興亡と常南連合軍
戦国時代の常南地方及びその周辺の豪族表を掲げる。規模の大きい者から記す。
(常陸)佐竹氏:(地頭)源義光の後裔、初代昌義、常陸北部七郡 を領、居城初め佐竹城、次太田城、后水戸城、44万石、常陸第1 位、18代義重小田氏 を亡ぼし常陸南部を入手、19代義宣関ヶ 原で西軍につき、秋田20万石に左 遷される。
(常陸)小田氏 :(守護)八田知家の後裔、初代知重、筑波河内 茨城の3郡を領、小田城、推定16万石、関東八館の一、6代治久 (南朝の忠臣北畠親房に 協力、親房ここで「神皇正統記」を書く) 7代孝朝(剣道小田流の開祖)14 代氏治(佐竹氏に亡さる)
(下野)小山氏 :(地頭)藤原秀郷の後裔、初代政光、居城小山城、関東八館の一つだったが勢力振はず。
(下総)結城氏 藤原秀郷の後裔、初代朝光、居城結城城、11 代氏朝(足利持氏を奉じ永享の乱を起こし自殺滅亡)後再興、16 代政勝(古河公方の重 臣として最盛期、結城下妻下館長沼小山を 領し20万石)、後家臣、多賀谷氏 に圧迫され縮小、2万石とな る。
(下総)多賀谷氏 :平高望の後裔と自称、初代宗政、始め結城 氏の家臣、居城下妻、6代政経の頃から勢力を伸し、7代重経の 時、豊田猿島岡田3郡を領し最盛期14万石、佐竹氏と同盟し小 田氏を亡ぼす。豊臣方、慶長元年家康を小山の営に襲はんとして 発覚、死罪を許されて追放、下妻城は破却、長子は秋田の佐竹に 頼る。
(常陸)岡見氏 :源経基の後裔、初代信通、筑波郡南半、河内郡北半を領、居城 足高城、推定5.4万石、11代宗治足高城で多賀谷氏に囲まれ自殺、滅亡。
(常陸)土岐氏: (地頭)源頼光の後裔、初代光信(美濃土岐 郡に居住)5代師親(信太郡地頭、居城江戸崎)13代治綱( 江戸崎土岐氏)弟胤倫(竜ヶ崎土岐氏)に分れる。天正18年 落城。
(下総)相馬氏 平将門の後裔、初代将國、相馬郡を領、居城 守谷、天正18年落城。
(下総)豊島氏: 源頼政の後裔、初代頼綱、11代頼貞(布川に築城)18代紀伊守頼継最盛期、20代明重(天正18年 落城)
(常陸)太田氏:太田道灌の一族、武蔵岩付より移住、初め小田氏につき、後佐竹氏に仕う、 居城片野。
(常陸)由良氏 :新田義貞の後裔、上杉氏により上州新田を追われ、岡見氏に寄寓、小田原役の後旧領に戻る。
(常陸)大掾氏 :常陸國大掾の後裔、居城府中(石岡)後佐竹氏の配下となる
(常陸)江戸氏 :武蔵江戸氏の後裔、居城水戸、慶長年間佐竹 氏に亡さる。
(常陸)栗林義長戦国時代末期の岡見氏の軍師、 出生不明だが「関東の公明と呼ばれた知将。」  
 常陸・下総地方の主な城

この辺りの戦国時代は、応仁元年(1467)の応仁の乱から、天正18年 (1590)の豊臣秀吉による小田原攻略までの123年に亙る。この 地方は下総国と常陸国の国境に位置するので大豪族の勢力の境界 ともなって、沢山の合戦が記録に残っている。主なものだけで1 5回に達している。小せり合いまで入れたら大変な数になるであ ろう。恐らく全国でも有数な合戦地帯では無かろうか。

中山義秀氏によると、この常南地方は関東剣道の発祥地といはれ、 城主で一流の流祖となった人が多くある。例えば、小田流―小田 城主、小田孝朝ト伝流―鹿島塚原城主、塚原ト伝、一派流―常陸 江戸崎城主土岐氏の将、諸岡逸羽、霞流―真壁城主、真壁久軒(又 は闇夜軒)や、この他真壁在住の斉藤伝鬼(天流)は下妻城主多 賀谷氏の顧問格をしている。このあたりの城主達が、必要上から か、武道に精進した様子が伺える

周囲を大豪族に囲まれた中で、これら小豪族は自らを守るため、小田 氏を中心として、土岐(江戸崎と竜ヶ崎)岡見(足高)相馬(守谷) 豊島(布川)大鹿(取手)の諸氏は、常南連合軍(正式の名ではない 。戦記の上で諸氏の動向から推定されるだけである)を作って互いに 助け合った。この連合は戦国時代の初期から末期まで綿々と続いてい る。この中から大鹿氏小田氏、岡見氏が順々に滅亡し、最後に、土岐 、相馬、豊島の3氏だけが残る。

最初の大鹿氏は永禄4年(1561)に一色氏(小文間)に亡ぼされ、つ いで 天正2年(1574)に小田氏が太田三楽(道灌の子孫)と佐竹連 合軍に亡ぼ され、最後に岡見氏が天正15年(1587)に佐竹派の多 賀谷氏(下妻)に 亡ぼされた。

戦国時代末期には、この地域は小田原北条氏に侵略され、その配下に なると今度は北条氏の先手として、千葉氏や佐 竹氏に対抗するようになる。こ頃になると、東葛郡の有力者高城氏 (小金城主)、荒木氏(柴崎城主)もこの連合に加わって、作戦行 動を共にする。その理由の一つには名軍師栗林義長(関東の孔明と呼ばれた) が岡見氏の幕下として、常南連合軍の 統率に当ったためと、思われ る。

この戦国時代を生抜くことは城主にとって大変な仕事だったと思はれ る相馬氏は関東八平氏の中で只一つ生き延びた家であると云われる。 (相馬則胤覚書) 平将門以来当時まで650年も続いた名家であっ た事が幸いした事もあるが、城主の器量や重臣の能力も物を云ったで あろう。同じ事が、分家である奥州相馬氏についても云へ、この方は 明治まで華族として栄えた。

戦国時代常南地方豪族の勢力消長

1.戦国時代初期(古河公方成立から小田氏滅亡まで)

戦国時代地方豪族の勢力消長図その1―初期

永享の乱[永享12年(1440)]:関東管領足利持氏、結城城に據って 将軍に反乱、日本半国の大軍で包囲され自殺。遺子成氏、常南豪族の 協力で古河公方となり、上杉方の堀越公方(伊豆)と対立、関東地方 は江戸川、古河を結ぶ線で、両勢力に二分される。
この頃結城氏は古河公方の重臣として最盛を極め、石高20万石、結 城に 城下町をつくる。一方佐竹氏は反上杉派に属す。この対立の下 で、黒子合戦(弘治2年)山王合戦(永禄2年)あり、結城勢と小田 勢が争う。湯袋山合戦(天正元年)で小田勢破れ天正元年10月佐竹 軍一万騎で小田城を包囲、小田氏治土浦城に逃れ、ここでも包囲され 自殺、鎌倉以来の名家小田氏亡びる。

2.戦国時代の中期(小田原北条氏の侵入から岡見氏滅亡まで)

戦国時代地方豪族の勢力消長図その2―中期

延徳3年(1491)伊豆に旗上した北条早雲は明応4年(1495) 小田原城を奪って本拠とし第2代氏綱は上杉を追いほぼ関東全円を治 める。古河公方は2代政氏から弱体化し、小田原の幕下となる。一方 多賀谷氏は次第に勢力を延ばし、重経の時猿島郡を入手。結城氏は縮 小されて2万石となる。
天正元年(1573)第5代北条氏政は、氏堯(小机城主)を総大将とし 、5万騎で常南地方に来襲、常南連合軍これに降伏、北条氏常南部を入 手する。以後。常南連合軍は、北条氏の先陣として 多賀谷征伐(天正4年) 千葉国胤の反乱討伐(天正7年)(千葉氏滅亡)、香取郡制圧 (天正9年)、埴生、千葉、印旛3郡を鎮圧(天正11年)、 かくて北条氏は安房、上総、下総の3国を入手する。栗林 義長は連合軍総大将として活躍感状を受く。

            栗林義長総大将になるへ戻る

3.戦国時代末期 岡見氏滅亡から小田原落城まで

戦国時代地方豪族の勢力消長図その3―末期

天正15年8月 名軍師栗林義長、足高城で病死する。好機に乗じ多賀 谷重経大軍で足高城を包囲放火する。城将岡見中務、舟で安楽寺に逃れ たが、また包囲、寺に放火され火中で自殺する。岡見氏滅亡(天正15 年)

天正17年多賀谷重経(下妻)、水谷勝俊(下館)秀吉に上書、北条征 伐を進言する。

天正18年正月(1590)秀吉、諸将に東征の制令を発す。3月京都進発 、軍勢41万、4月小田原城包囲、7月氏直降伏、高野山に遂はる。7 月父氏政、氏照切腹し落城。

天正18年4月2支隊をもって関東の各城を攻撃、徳川隊は5月18日 までに房総の48城を落す。各城主、降伏または逃散する。

戦国時代末期の諸将名(東国闘戦見聞私記より)
佐竹義重(太田)宇都宮国綱(宇都宮)結城晴朝(結城)小山秀綱(小 山)江戸氏(水戸)大據氏(府中)多賀谷重経(下妻)水谷勝俊(下館 )真壁氏幹(真壁)梶原資朝(柿岡佐竹)太田三楽(片野佐竹)江戸監 物(土浦佐竹)諸岡逸羽(江戸崎土岐の将、剣客)江戸崎土岐氏、竜ヶ 崎土岐氏、岡見中務宗治(足高城、郎党:岡見主殿、同治部大夫)相馬 治胤(小次郎、相馬氏主流、守谷城)相馬胤永(二郎、高井十郎高井城 、郎党:相馬民部大夫、同彦次郎同左京)相馬親胤(小三郎、郎党:相 馬求馬、同小四郎本田越中、筒戸城)

(利根町)布川近辺の武将
豊島紀伊守(明重?、布川城、郎党:豊島七郎、同九郎、同五郎、荒井 治部、同治郎)侍大将:海老原三河、浅野丹波、山崎出雲、桂左京、菅 谷左エ門、諸岡長門、寺田大膳

利根町近隣市町村関係(ご参考までに)
昭和47年現在の電話帳より調べた、上記名字の数(1位、2位を示す)
 豊 島(我孫子 31、伊奈村 21) 相馬(沼南 16、我孫子  5)
 海老原(取手  275、我孫子 98) 寺田(取手115,竜ヶ崎 70)
 菅 谷(藤代   28、竜ヶ崎 15) 諸岡(竜ヶ崎 13)
                    (1999,12.2記)

小田原の役の始まりに永年敵対関係にあった多賀谷重経から好意ある文 書が布川城主と菩提寺の来見寺当てに寄せられている。豊臣秀吉の並々 ならぬ決意を説き秀吉方へ付く事を薦めた文書である。だが、この時既 に布川城主豊島三河守は小田原方に出陣した後だった。留守を預かって いた豊島四郎兵衛頼重は多賀谷重経の進言に従い豊臣方に付き参戦し討 ち死にした。その子主膳正明重は徳川の家臣となっていたが、さる武士 の仲人をするに当たり、春日の局とのいさかいが元で殿中刃傷第1号 におよびお家断絶となったのである。
(第2号には、かの有名な元禄14年(1701年)3月14日の江戸城松之大廊下 で浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷におよんだ事件が有る。)

トップページ へ戻る   ページのトップへ   総目次へ戻る

inserted by FC2 system