利根町の歴史

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赤松宗旦著「利根川図志」に見る近世の利根町概観 赤松宗旦と「利根川図志」 「利根川図志」著者年譜

つく舞幻想

「つく舞」は「尋橦」とも書かれる。今は昔、利根町の良き時代の象徴の一つでもある。 明治の中ごろに生まれた隣の古老から聞かされた話では、妙なる笛の音色をテープに取れたらナー!とのことであった。 いやそれどころではなく、明治27年生まれの父の文集を見たら、その笛に挑戦し才能なく挫折したと 記されていたのです。 そう云えば私の家に横笛が5〜6本あって叔父さんが吹いていました。多分祖父がつく舞に関係していた その名残りだったのでしょう。

或る百科事典によると、茨城県竜ヶ崎市八坂神社のお祭り(7月27日)出るのが名高いとし、 雨蛙の仮面をつけ、船の帆柱をかたどった14〜5メートルの柱の頂上で囃子に合わせて芸を披露する。 外には千葉県野田市の「だらだら祭り」と秋田県天王町の「蜘蛛舞神事」が有るという。 (注1、竜ヶ崎、野田、布川の「三つのつく舞」を称して「関東の三つく」とこの土地では言っていたようです。

つい先日、10数年前一緒に神社関係の役をやった海老原正吉さん(元馬場区長・元布川神社氏子総代) に会って昔の話をしていたら、自分史同好会の文集(利根川のほとりで)に「つく舞」の事を書いたと 言うのです。早速その本をお借りしました。「つく舞幻想」と題して祭礼進行とのかねあいからつく舞を 検証していました。元布川神社氏子総代で勿論祭礼実行委員長であったので祭礼の様子も事細かに書いて ありました。折しも、父の遺稿の中から「つく舞」の記事を発見しましたので併記しました。往時を偲ぶ よすがになれば幸いです。
(注)文中、各町の固有名詞が随所に見られ、町以外の方には「なじまない」感がしないでもありませんが御容赦下さい。

1.先ず、海老原正吉さんの「つく舞」から
地舞の様子を『利根川図志』はつぎのように記している。「舞人雨蛙の面といふを被り、立附をはき竹弓を持ち柱に上り、 その上にて種々(さまざま)の状(かたち)を為す。観る人戦慄す。この時船中にて、八九歳の男子数人をして地舞を 舞はしむ。鶴亀鹿猿龍等の面を被る。中にも大蛇が姫を呑まむとするを、山伏の防ぎ護る状を為すは素鳴尊の故事を 学ぶなるべし。舞の状笛鼓の囃等、至って古風なり」と。白井さん(海老原さんの先輩で元馬場区長・元布川神社氏子総代) が父親からきいた話だがと言って地舞の話をしてくれた。「父親がまだ子供の時、馬場が大当番(お祭りの当番のこと) で地舞の役をやった事があった。大回り三回まわる間中、ずっと地舞をやっていたから随分くたびれた。 笛と太鼓のおはやしに合わせてただピョンピョンとはねているだけだったがくたびれた。」と。

祭礼の資料を調べた時、明治三十五年は馬場区の大当番で、その時の役割表があった。 それによると、子供達の役割は次のように割り当てられていた。龍3人、地舞11人、鶴6人、亀6人、 猿3人、大蛇3人、尊3人、姫3人とあって総勢41人に役がついていた。 大回り3回中、子供達がピョンピョンはねていたとの白井さんの話だが、大回り1回毎に交替したのでは ないかと推測する。利根川図志でも「八九歳の男子をして舞はしむ」とある。役についている子供達の 人数が3で割れる数であるから、3組に分けてやったものと思われる地舞のみ11人だが。

龍を始めとして、割り当てられた役は全部で9種類である。「男子数人をして地舞を舞はしむ」と あるから3交替でやったとの見方が自然ではないだろうか。「姫」の役もあるが、この役も男の子 の名前であった。役割表「大蛇」の役の中に、白井保太郎の名前がのっている。白井さんのお父さん の名前である。お父さんがピョンピョンはねていたと言われたのはこの時のことであったと思われる。 お父さんの話の中に出てくる「大回り」は現在でも中日に行われている。

揃いの浴衣、黒い羽織に「ともえ」の紋をつけ、赤い鉢巻を肩にかけ、麦藁帽子に洋傘を持った姿の 「使者」が先頭に立ち、 白いシャッツとズボン下姿に黄色い鉢巻を肩にかけた「お輿世話人」が紅白の幕でリヤカーを飾って 太鼓をのせ、その周囲を囲み、二人で太鼓を「ドンカンドドカン」とたたき乍ら、使者のあとにつく。 そのあとから、そろいの浴衣に黒い紋付の羽織を着て、麦藁帽子に黄色い鉢巻を肩にかけた町世話人、 区長、氏子総代等が提灯を持ってあとからついて行く、「御輿世話人」も赤くて細長い提灯を下げて行く。 夜は勿論だが、昼でも提灯を持つ、その故か「祇園まつり」を「提灯まつり」とも言っている。
(注、布川神社のお祭りを、この地では祇園まつりと称す。方言では「ギョン」で通じる。)

今の大回りは祭礼本部を午後3時に出発して、午後5時に戻ってくる。全町合同の「まつり」だから、 馬場・下柳宿・上柳宿・中宿・浜宿・内宿と6町内を廻って2時間30分かかる。

明治35年の大当番の時は馬場単独であった。馬場区内だけ回れば良い。一廻りするのに1時間位である。 3回廻っても3時間ですんだと思う。すると「つく舞」は3時間から4時間位やっていたのだろうか。
中日の行事
午前中は内宿の御仮殿に集まり、御神体が御神輿の中にあるから二日目の参拝の儀式をすませ、 それからつく舞をしたのではないか。とすれば、つく舞は正午頃から行われたのではないかと。 夏の日は長いから充分3回出来たと想像する。

今の中日の行事は、午前10時に全町の役員が内宿の御仮殿に集合する、神主の祝詞のあと、 役員の玉串奉奠などの行事を1時間位かけて行い、解散する。そして午後3時から前述したように 「大廻り」をしている。

明治35年も、二日目に大廻りを行い、「つく舞」をしている。明治の役割表の順序を追って 見てゆくと、次に「御船下棒突」の役に4人の名前がのっている。男性の名前だが年齢は20歳位 いから30歳位までの若い人達だと思う。この役は「つく舞」をやっている時、船を外から棒で 支えていた役と思われる。次は「御船造建解」7名がある。この役は舞台となる御船を造ったり、 終わってからほごしたりする役である。役割表の中には御仮殿を建てる役が出てこない。 御仮殿は次の大当番の町内が建てたと思われる。
(注、現在がそうであるから。)

小林一茶も「七番日記」の中で、文化七年(1810)六月十六日。「戸頭より大鹿、新町、 小文間渡り、わたりて布川に入る。けふ布川大明神祭りとて、つく舞といふことあり」 昼顔の花の手つきや狙(さる)の役 と俳句をつくっている。

次に一番関心をひいたのは、いつごろから「つく舞」が中日に行われるようになったかである。 利根川図志では「十六日神輿本殿に帰る時、境内に尋橦の舞あり」とある。御仮殿が内宿にあって、 そこを神輿が出て布川神社に向う日である。即ち十六日は「まつり」の最終日である。利根川図志では、 赤松宗旦が安政ニ年(1855)に自序を記している。一茶の句はそれよりも40年も前の句である。 江戸時代には「まつり」の最終日に「つく舞」があったことは、はっきりしている。それが明治35年には中日、 即ち15日に変わってきている。一日早く行われている。中日は「まつり」の中休みの日である御神輿が出ない、 人手に余裕がある。この辺に変わった原因があったと思う。

2.父、豊島浅吉覚書からみてみると
昭和47年7月27日NHK水戸放送局員臼田 弘、竜ヶ崎第二高等学校勤務鈴木 久、 竜ヶ崎市広報係長杉本一雄三氏の来訪を受けた。その語るところを聞けば『今度竜ヶ崎市に「つく舞保存会」 というものが出来、午後からの祭礼の一行事として「つく舞)」が行われるのでそれを観に行くのだが、 昔から「関東の三つく」と称せられて、野田、布川、竜ヶ崎の祭礼で行われたと言われています。 野田と布川は絶えてから年久しく残っているのは竜ヶ崎のみとなってしまいました。そこで、 布川ではどういう「つく舞」を演じたのか、現在となってはその光景を見た人も少なくなっているので見、 知っているだけのことを話していただき参考にしたい。』とのことであった。

   つく舞(於竜ヶ崎、30数年前)    平成14年7月27日龍ヶ崎市つく舞18景

放送局員一行来訪のことは2日ばかり前に話があった。布川の「つく舞」が 絶えてから63〜4年にもなるので記憶も大分薄れているけれども、質問に対して思い出すまゝ 大体の概況を説明した。

旧暦6月1日大当番に注連(しめなわのこと)おろしの事。
10日から大行燈を懸け かけ行燈と称す)、その下にて13日夜まで笛3人大太鼓1人、舞の指導者12人、舞人青年数人、少年・幼年20人前後にて夜更けるまで稽古の事。

14日夜神輿渡御の事。

15日つく柱を車に積んで廻り太鼓、仮装行列の事。社前につく柱を建て御船と称する櫓を造り柱から紅白の布綱を張って夕方までに舞台装置を終える事。

16日神輿帰還で馬場通りへ近ずく頃「神舞」・「つく舞」が始まる。社前では神輿が先当番の人々によって何回も石段から押し戻される。5回7回の奇数を以って神輿が神社に納まるまで舞続ける。翌朝日の昇る頃、花火の合図を以って祭礼を終了終了する。・・・等の概略を話した。

一行は、利根川図志の挿絵をカメラに収め、布川神社を撮影してから「つく舞」を観るべく辞去したのである。その際、来る8月24日午後1時過ぎから「町から村からの」題でテレビで放送するから注意して見て下さいとのことであった。

「つく舞」「神舞」を始めたのはいつ頃か知っている人は今一人も居ないであろうが利根川図志に記載してあるのだからよほど古い昔からのことゝ思う。

私が尋常少学3・4年頃の明治35年9月28日に秒速48メートルの台風が吹き荒れて、布川神社の直径2メートルもある大杉が倒れた為に宝物蔵に納めてあった神輿が大破した。以後明治42年まで山祭りといって形ばかりのお祭りをすることになったのだが、大嵐前までは年々この「つく舞」が行われ観客を魅了してやまなかったのである。たしか、明治42年頃神輿が新たに完成し43年夏祭りに上柳宿の大当番で「つく舞」を挙行したのが最後であった。

その時には笛、太鼓、舞の指導は殆んど馬場の老人達が頼まれて行った。「つく舞」は船頭あがりの舞に馴れた人であったらしい。太鼓の係りは私の祖父、笛吹きは何れも歯の抜けた老人ばかりであったが石井惣左ヱ門の隠居が笛の名手で聴く者は皆恍惚として感嘆するばかりであった。併し遺憾ながら曲譜が六ケ敷くあった為か幾人習っても真似も出来ず遂に後を継ぐ人が無くて自然に絶えてしまった。誠に惜しいことである。若し明治の末年に録音機が使用される状態になっていたらこの優雅な地方芸術を絶やすことなきを得たであろう。実は私も笛吹きの妙音に魅了されて2年近くも真似てみたのであるが笛吹きだけは天稟がなければ幾ら苦心しても無駄だと諦めて止めてしまったのである。

(以下手前味噌ながら父の自慢話を聞いて下さい。文の延長として続けます。)しかし、それから心の空洞を塞ぐべく詩吟と作句を始め20歳前後に中央新聞俳壇で「洪水に山里遠き灯り哉」の一句で、ある日のトップに立ち更に後年民謡作家百人集に名を列ねた。昭和45年サンケイ新聞全国俳句大会には大臣賞を含む全国俳人の9000句を抜いて俳壇の巨擘阿波野青畝天位賞を受賞したのである。そして3回、五句選集に搭載の栄を得ている。今になって過去を顧みると、不得手な笛吹きに心を奪われていたなら幾ら熱中しても下手な笛吹きで終わったであろう。 覚え書をつづけます。「つく舞」から離れますが。

加藤清正熊本城築城夜話
昔話に聞いたことであるが加藤清正が熊本城を築くとき領民は人足に狩り出されたが領主の築城工事に快く協力した。ところが昼食時になると一人の人足は仲間から離れて白い飯を食べている。そこで仲間が怒り出して「俺達は麦飯を食って領主の為に働いている、憎い奴だやって仕舞い」と大石を転がしてたので哀れにもその男は押し潰されて死んでしまった。ところがそこへ行って見ると白米の飯と見たのは誤りで豆腐のからであった。彼は仲間の人々よりなお貧しかったので、麦飯をに持って来ることが出来ず恥ずかしいので独り離れて食べていたのだ。それがわかって人々は後悔をしたという熊本城築城に関する哀話が残っている。(注、加藤清正は熊本城築城時に、白川と坪井川を改修し城の守りと河川舟運確立しています。

後記「つく舞」では二人の見聞を紹介しました。往時の祭りの様子、つく舞への取り組み、 その多くは当然ながら現代なを継承されているようです。(除くつく舞)古風なしきたり の中で昔を偲ぶことが出来るのが祭りなのです。ただ、若者の使者姿にミス・マッチと思 える点が一つあります。揃いの浴衣にともえの紋つき羽織は当然としても麦藁帽子(実用 的に最高)に洋傘携行(杖に使うでもなく日傘に開くことも余り無い)は何時からか、 明治時代西洋文明を積極的に取り入れた名残りなのか、いやそれ以前はカラカサ携行だっ たのか?興味のあるところです。 (記2000.12.7)

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