民俗学の父 柳田國男 と 気象学の父 岡田武松

対岸から見た豊島台    町から見た秋の筑波

旧布川町と布佐町地図の一部

柳田国男は明治二十年の初秋、兵庫県から茨城県布川(現利根町)で医院を 開業している長兄鼎のもとに移り住んだ。13歳の時のことである。丸2年 たった二十二年九月には両親と弟二人も布川に来て一緒に住むようになった。

柳田国男少年時代写真

布川には2年在住したが、15歳の時勉学のため東京の次兄井上通泰 のもとに身を寄せ第一高等中学校(後の一高)で学ぶこととなったの である。著書「故郷七十年」の布川時代(章)利根川のほとり(節) によれば(布川に来て)「それからの二年の間私にとっては一日一日 が珍しいことばかりに思われた。(中略)この二十二年の秋までの二 ヵ年というものは、悪いこともいろいろおぼえたけれども何だか自然 の生活といったものが分かったような気がした。考えてみれば播州の 三木家についで布川の小川家(兄医院の大家さん)は第二の濫読時代 を与えてくれたのであった。」と述懐している。

註)平成4年9月1日に旧小川家を復元した「 柳田國男記念公苑」 (町広報より)オープン翌年から年中行事「柳田國男記念フエステバ ル」始まる。

歩行者天国風景また、「柳田國男ゆかりサミット」(町広報より) も平成10年5月22〜23日に開催された。>

三木、小川の蔵書家に恵まれたことに加え、特に布川時代は病弱を理 由に兄もあまり干渉せず、学校にも行かず、両親特に厳格な母親の目 の届かない全く自由奔放な生活を送ることが出来たのである。幸いな ことに小川家に本を寄贈する人が有って新刊書や文芸雑誌その他の本 がどんどんと入り、柳田國男は貪欲に読み漁ったのである。利根川図 誌校訂本解題には「大いなる好奇心を以て最初に読んだ本がこの 利根川図誌であった」と記されてある。

然し当人に言わせれば「この様な生活は2年が限界で両親が布川に来 るに及んで人並みの生活に戻れた」と反省している。  

長兄が医者の関係で「利根川図誌」の赤松医院とは同業の誼と同じ播 州出身(らしい)の同郷の友として深い付き合いをしていたことも 「利根川図誌」が身近なものとして心に捉えられ、後年同書の校訂本 を出すことになったのであろう。(勿論同書は立派な地誌であり壮大 な志から生まれた名著にも由来することもあろうが)

豊島が台の西端は城山と呼ばれ戦国の昔、豊島城の出城の有った所此 処に後述の気象学者岡田武松が中央気象台布川出張所を開設、現在は 利根町役場庁舎)空堀を隔てて東側に琴平神社、徳満寺地蔵尊と続く 琴平神社で奉納相撲有り、また 徳満寺地蔵尊 には子育て地蔵菩薩が祭 られている。どちらも五里四方に名を響かせた祭事で文化文政時代の 町の繁栄ぶりを象徴するさまは図誌で示すとうりである。

この地蔵尊に最大の問題とも言える「「(子の)間引きを描いた絵馬」 が掲げられてあった。天明の浅間山大爆発による大飢饉(天明3年・ 1783年)やその前後2度続いた利根川地元での決壊は、布川住民に大 打撃を与え、やむを得ず庶民の生活防衛の一手段として暗に用いたも のであろう。それが絵馬として残されていたのである。

たまたま柳田国男が布川に来た明治二十年(1887年)頃、天保飢饉( 1833)の後遺症や船便の衰退によるのであろう、一男一女の家族構成 が多いことに柳田国男は不思議に思ったのである。貧困のなせる業で あり例の絵馬が現実味を増してきてその心に刻み込まれることとなっ た。

その他に小川家祠での不思議体験、大家さんの不幸な 出来事、関西・関東の風俗習慣の大きなギャップに戸惑ったこと・・など。岡谷公三 著「柳田國男の青春」によれば「三木家と布川時代の幼少年期におけ る郷土的諸体験はほとんど奇跡的な印象を与える程で、後八十数年に わたる思想の形成に永続的影響を付与している。」と論じている。

やがて長兄鼎の医院も利根川を挟んだ川向こうの千葉県布佐(現我孫 子市布佐)に移転し御両親の墓も同地に建立され生活の拠点が布佐に なった。それが因で一高で一年先輩の(布佐出身で後の気象学者)岡田 武松を知り、二人で筑波登山から水戸・大田・磯崎―銚子(船便)と道 のりも100粁に及ぶ5泊6日の徒歩旅行を敢行するなど親交を深めてい った。

青春時代のお二方は利根の風景・筑波山などを眺め 利根川図誌を引き合いに出して語り合ったことは想像 に難くない。何となれば岡田武松も後年利根川図誌に大きな影響を与えたであろう 鈴木牧之著「北越雪譜」の校訂本を岩波文庫から出版したのである。雪の結晶とい う気象現象から書き出してはいるが、雪と生活・風俗が描かれている本である。

(町の現代画家新井幸雄氏作―利根川図誌に描かれた布川の祭り3題をカラー化)
  徳満寺地蔵尊ご開帳   布川神社宵祭りの図   布川神社ツクマヒの図
  3〜40年前竜ヶ崎市で行われているツクマヒの図  2002.7.27龍ヶ崎市つく舞

ここで気象学者 岡田武松博士に就いて触れてみたいと思います。
元来文科にも興味のあった岡田武松は、東京帝国大学で文科系、理科 系を選ぶに当たって棒の倒れ方で方針を決めた逸話が有り柳田國男を 唖然とさせたのである。柳田國男も「岡田武松君は文科系統の学科も よく出来た」と評している。中央気象台に入ってから、専門書を多く 出す傍らで測候瑣談及び続編の面白い随筆集を出版し、暗に地域に密 着した測候所職員としての在り方や業務の方向ヒントを盛り込ませて おり気象台のバイブル書とも言える本であった。

世俗の所謂竜骨」 という一節をご紹介いたします。
お天気のことで気象台に電話がかかってくる「入梅なのに雨が降らな い」とか、職員は「入梅と雨は関係ないんだ」と率直に説明してしま うのも一つの方法であるが、それもお尋ねになる方々の身分とか何と かに応じてやらないとかえってトンダ結果になってしまう。

「サーネー」なんて瓢箪鯰るのも一つの方法ではあるがそれでは何年 経っても改良できない。丙午の迷信で昭和の今日幾多の佳人が深窓に 泣いているのを考えて見ると、迷信のの去り難きは全く想像のほかで ある。

科学関係の業務に従事してるのだから迷信はなるべく消滅するように 努力するのは当然のことと思うが、それがいろいろの関係で率直にや りにくい場合が多い。さりとて迷信に巻き込まれているような返事を したのではこれもはなはだ業務の権威にかかわるのだから困る。こん な進退両難の場合での挿話がある。

竜骨が出たというので大変な騒ぎがあり、博物学の大家伊藤先生の折 紙が張り出してあった。「世俗の所謂竜骨に相違無之候」とあた。筆 者は「ナールほど大家はさすがに大家」とすっかり感心させられた。

(私も気象台・気象庁に席を置いた身で岡田先生には布川で2年柏で1年教 えを受ける幸運に恵まれ、昭和24年の柏養成所通学の際の週に一度は老先 生(76歳)のお供をさせて頂きました。先生は官用車の送迎を頑としてお 聞き入れなされず、有名な成田線行商列車の背負い籠に挟まれながらの出勤 で座れない事もまま有りました。退官後もこのようにして気象事業発展のた め後進の指導を念頭に置き、また、部下を思い技術者を大切にされた先生で した。詳細は岡田武松伝をご参照下さい。)

気象学者岡田武松は気象用語「台風」の命名者でもある。また、日露 戦のロシヤのバルチック艦隊を迎撃した日本海海戦時には予報担当官 としての6年の経験を生かして当該海域の天気を「天気晴朗なれど浪 高かるべし」と漢文調の予報文を発した、明治38年5月26日のこ とであり予報は見事的中したのでる。まさに国運を賭けての大仕事であった。

岡田武松は昭和24年に、柳田國男は26年に夫々文化勲章受賞の栄 に浴している。ご近所から二人の偉人を輩出したことを誇りに思い、 その風土に愛着を感じる者である。              

註)私如き浅学非才の者がご説明せずとも著書を一読されればすぐに分か ることではありますがインターネット・メデアの特色の利用と利根町ご紹 介の意味合いを込めて書いてみました。拙文お許し下さい。     

参考文献として須田瀧雄著「岡田武松伝」を引用させて頂きました。

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