来見寺物語

開山のこと

来見寺は弘治2年(1556)敕特賜大光仏國禅師独峰存雄大和尚によって創立、開山されました。
ところが、この山には龍神様が住んでいて、たびたび雨を降らせたり、或る時には雲を捲いて去ってしまうこともある。 ある年、大旱魃になったことがありました。村人は、この山の龍神様を祭り雨乞いをしました。 すると、忽ち雨が降り注ぎ、五穀を豊かに実らせたそうです。このようなことがあって、近隣の人々は この山を瑞龍山と呼ぶようになったのです。この場所に頼継寺と称するお寺があります。境内の偉容は、 この地方において最も抜きんでたものでした。

その由緒を尋ねますと、後奈良天皇の御代弘治2年、開山独峰和尚が、この山が霊地であることを聞いて 尋ねて来ました。そして、和尚は山で座禅を始めました。ある夜のこと、7〜8才の童子が現れ和尚に向かい 「仏の道を説いて下さい。」とお願いしたのです。和尚は快く応じ、そして尋ねました。「あなたは何処から 来たのですか」童子が答えて言いました。「私はこの山の主の龍天です。常に利根川の水を帯びてこの山に住 んでいるのです。和尚さん、仏法の大慈大悲の心で私をお救い下さい。」

和尚は「あなたが本当に龍天ならば、その姿を見せなさいい。」と言いました。すると、童子は、たちまち 身体を震わせ、百尺(30m)もある龍蛇に変身したのです。哀れに思った和尚は遂に三摩耶戒の教え(実存と 現象の差別のなくなった境地に至るための戒法)を説いて、仏祖正伝の血脉(仏祖から代々受け継がれた仏弟子 としての血脈)を授与したのです。童子は厚く礼を述べて言いました。「私は、今日から和尚さんの仏法を守護 して、永久に法幢(法の旗)をお護りします。」と言って立ち去っていったのでした。

このときの布川の領主は豊島三郎左衛門尉またの名を豊島紀伊守頼継(人皇56代清和天皇九代の後裔、 源三位頼政から更に19代の後裔)という人でしたが、独峰和尚の徳を慕いその教えに帰依して菩薩戒を請けて 弟子となったのです。そいて、この山に七堂伽藍を建立し寺領32貫文を寄付して、独峰和尚を迎入れ開山の祖 としたのであります。その伽藍の壮麗さは目を欺くほど立派なものだったようです。

(平成9年7月31日に今建っている本堂の上棟式が行われた時の話です。この日は好天に恵まれいよいよ 大詰めの棟上げとなり、揃いの半纏姿の役付業者、寺世話人、建設委員総出で棟上げの綱引き、そして、唄声 に合わせ、かけや(大型の木槌)の音も高らかに型通り棟上を果しました。さて、いよいよ最後の儀式、お祝 いの餅蒔きの段階になったのですが、この頃より北側の山上に黒い雲が渦を巻きながら足早に広がって来たのです。

五色の旗、弓矢の据え付けをし、仏祖、先代に報告と御加護の祈りを捧げている折しも、突然雷が鳴り響き ました。もう少し、天候が持ってくれればと願いながら四方餅蒔き、鏡餅蒔きも無事終了し、やれやれ、 これかれ、お集まりの善男善女の皆様に用意のお餅を配ろうと赤門の所まで急いだのですが、その時既に遅しで、 物凄い豪雨に見舞われてしまいました。その間24〜5分、餅をもらった人も我々も門の下で釘付けになってし まったのです。

(「雨降って地固まる」のたとえがあります。全行程を無事に済ませてからの雨ですから、皆んな目出度い とささやいでおります。祝宴のとき、住職は満面に笑みをたたえ、こう言いました。「瑞龍山来見寺にとって 雨は瑞兆の印です。・・・」と言って上記の話をしてくれました。これ以上ないというタイミングで雨が降っ てきたのですから。並み居る一同も、目に見えない何か不思議な力に、只々感じ入るのみでした。

そう言えば、当日は7月末にもかかわらず、しのぎやすく、しかも雨の心配など微塵も無かったのでした。 この記事を書いた翌日密かな期待(瑞龍山だけが雨という)を抱いて図書館へ行き当日の天気欄を調べたところ、 前夜から当日12時まで関東全域が晴れになっており、予報官の感想として、「この日予報がはずれて苦情が 殺到した」と書いてありました。たしかに天候異変の日となったのでした。)


松替えの梅の話―布川の地名と来見寺名称の由来

高塚 馨著(文間小教諭時代の児童版)より

今年もまた、利根町に春がやってきました。それとともに、来見寺の庭の梅の花も美しく咲き乱れ、 うぐいすの鳴く声も、いちだんとおもむきを添えるのでした。この梅の木のことを 土地の人々は、 松替の梅(3本支柱で支える)と称し、ここにこの木のあることを、非常にほこりに思っています。

今から、390年前、慶長7年のことです。関が原の戦いに勝利をおさめ、天下を統一した徳川家康は、 そのお礼のため、鹿島神宮を参詣なされた。その帰りのことである。「府川の頼継寺に立ち寄っていくぞ。」 とおおせになった。その時は、まだ布川は府川と書き 来見寺は頼継寺(布川城主豊島三郎兵衛頼継という 人が建てたので、そうよばれていた。)と言っていたのです。

家康が頼継寺に立ち寄ったのには、一つの理由があった。当時、この寺の和尚(三世)は、家康がまだ、 岡崎の城主であったころの文学の先生をしていた日山和尚だったからです。日山和尚は、今でも殿様が自分 を思い出してくださり、この寺を訪れてくれたことに非常に感激を覚えた。二人は、上司と家来、先生と 弟子という間がらを忘れ、心からなつかしがり、昔をかたり、今をかたった。話はどこまでいってもつきぬまま、 その日は暮れた。(この日か翌日か、家康は「絹川に布もさらすや秋の雲」の句を詠んだと伝えられております。)

次の日、出発間ぎわに、家康は庭のあちらこちらをながめていたが、ふと、一本の松の木に目をとめると 「日山、そちは幸福者だな。こんな静かな所で、こんな素晴らしい枝ぶりの松の木と一緒に住めるとはなあ。」 とつくづくとおっしゃられた。

「これは、これは。さすがは殿様、お目が高い。そもそも、この松の木は、この頼継寺をたてられた府川城主、 豊島三郎兵衛頼継が先祖の地、摂津国(大阪)へ行っての帰り、道ばたで、この松の木を見つけ、あまりの枝ぶり の見事なのに足が動けなくなってしまった。そのため、気の毒に思った家来たちが掘り起こし、車につんで運んで きてやったといわれている松で、この寺の宝としているものです。

「なる程、そうであろう。こんな松は、めったにあるものではない。まったくすばらしい。」 、「そんなに気に入ってくださって光栄です。これは、わが家にとっては 大切なものではあるが、殿様が 天下を統一なされたお祝いと、こんなびんぼうな寺へ、わざわざ、わたしのようなものをおたずねくださ ったお礼に、この松の木をさしあげたいと思います。どうぞお持ち帰りください。」

家康は余程嬉しかったのであろう。日山和尚に何度も何度も握手した上で、「日山、もらってもよいのか。 そうか、ありがとう。それでは、あとで、わしの大事にしている梅の木をとどけてつかわそう。では、からだ をたいせつにな。」家康は家来たちとともに江戸の城へ帰った。やがて、江戸の城中から、来見寺あてに、 一本の梅の木が届けられた。それは、たしかに家康が日山にあげたものであるという証明書つきであった。

梅の木は、毎年春になると、つぼみが ふくらみ、そして、美しい花を咲かせ、鳥や人間どもを喜ばせている。 松ととりかえた梅。そうです。その時からこの梅の木のことを「松替の梅」と呼ぶようになったのです。

なお、その時、こんなこともあったのです。家康が府川の台にのぼって四方をながめると、今、ちょうど 織ったばかりの布を川の中で、さらしている娘たちの姿が美しくとらえられた。そこで「川に布をさらすと ころだから、今後は、府川を布川と改めたらどうか。それから、わしが、ここへそちを見に来たのだから、 このてらも、来見寺と改めるがよい。」といって、家康は、自分で筆をとり「布川来見寺」と書いて日山に 与えたのです。この時から、府川は布川になり、頼継寺は来見寺と言われるようになったのだそうです。 (もと、北相馬郡志)

以下、赤松宗旦の布川案内記草稿より(読みやすいように適当に送りかなを附けました。原本とは若干異なります。)

瑞龍山来見寺

龍海院と号す曹洞宗にして、常陸国真壁郡下妻村多寶院の末寺なり、當郷の城主豊島三郎兵衛頼継により、 永禄三年庚申の開基なり。開山獨峰和尚天正十五年入滅。本尊は釈迦如来。左右に文殊普賢菩薩。横町より入る。 山門に十六羅漢を安置す。本堂南向き十間、四面額は心越禅師の筆による。山門の左右に修禅場あり。 庭中に御松替の梅、側に阿弥陀経の碑あり。西のかた山の麓に豊島の石塔二基立てり。

頼継寺開基奉り知行の事

一、印西の内作屋の郷 拾五貫五百文 
一、同所大森の内 弐貫八百文 
一、府川の内十貫弐百文
一、文間早尾の内三貫七百文
こ此度頼継寺開基致すに付き子々孫々に至るまで右の知行相違なく附け奉るべき 所件の如し。永禄三年七月廿一日 豊島三郎兵衛頼継 花押 拝進頼継寺 衣鉢の役者中

松替の梅について

そもそも當寺三世日山和尚ハ、参(三)河国の産にして、幼年の頃、参河国龍海院にて、 東照神君と筆硯の御友なりしと也。慶長九年、神君鹿島参の日、御供青山因州太守阿部備州公へ 御たづ祢有って、當寺へ御旅館となり、一日御留輿あそばされ、日山御目見への上、仰(おうせ) ありけるハ、我是所に来り、師に見(まみ)ゆること、誠に喜悦のことなれバ、當頼継寺を革 (あらた)めて、来見寺と號すべし。又府川も川上の絹川に對して、布川にて然るべしとの上意 なれバ、夫より今のごとく改められしとなり。猶また 神君庭中の松樹を甚だ御賞美満し々 (ましまし)て、御所望のよし有けれバ、其後に日山御登城のみぎり、かの松樹を献上仕りけれバ、 神君御喜悦の余り、御城内の梅樹を下し置かれ、制札を相添え、全阿弥と申す人をして、當寺の 庭中へ遷し植られ、且當寺へ三十石の御朱印を賜ハりしなり。右の松樹ハ、御城矢来御門の中に有て、 梅替の松と號し、今に存在せりとぞ、當寺にても、古(こ)の梅の樹を松替の梅と称して本堂の前に 今猶在り、是に依て布川のことを松替の郷とハ號(なづ)けしなり。

御朱印の文
  左に
下総国。相馬郡。布川の内。文間村。参拾石。寄付する所也。並に寺中竹木諸役免許令(せしめ)?。者。 佛事勤行懈怠有るべからざる之状。件の如し。  慶長九年三月十五日 朱印

御松替の梅 制札の文
  左に
禁制
  一、花を採り枝を伐る之事
  一、子(み)を落し狼藉之事
  一、掃除怠慢之事 右永く之を禁止せ被(られ)畢(おりぬ)。違犯之輩者(ともがらハ)曲事(くせごと) 為(たる)可(べき)者也。
  慶長九年十一月 奉行

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