利根町の昔話

第1話-お雪哀話 第2話-狂歌師抜村 第3話-明神の絵馬 第4話-蚊帳沼
第5話-奥山の観音様 第6話1-子育て地蔵 第6話2-不思議な男 第7話-笠ぬぎ沼

お 雪 哀 話

相馬伝説集(寺田喜久著)緒言末尾に「本巻には総て200編の伝説を 蒐集されてゐるが、平将門、本多鬼作左に関する伝説、小町娘のお雪、 藤代おトヤの伝説は旧相馬に於ける4大伝説と云つてゐる」と有ります。

小町娘お雪の物語は、押付の人「蜀亭」の著といわれ口語訳本として
「毛吹草」利根町の鶴殺し伝説―芦原修二(作家で利根町史編さん委員)
「利根町昔ばなし」      高塚 馨 (元利根町文間小学校教諭)
の両氏が夫々ふるさと文庫として崙書房から出版しています。

また、地元の人形劇団「お話とんとん」によって柳田国男ゆかりサミット その他イベントで度々上演されております。

利根町には面白い民話が沢山ございます。その民話第1回として上記を 物語を掲載しました。ホーム・ページ用なのでなるべく短文で読みやす いようひらがなをも多用しました。文章、用語の使用等目茶苦茶で原著 の意味合いから外れた所が多いかと思いますが、ストーリーをくみ取り 頂けたら幸いと存じます。

怨恨の地=鶴殺の跡(泪塚)

文村押付の共有地の開拓者に鈴木佐右衛門景頼と云う人がおりました 。布川城主豊島紀伊守の家臣でしたが主家豊島氏は豊臣秀吉の小田原 攻めの時北條方に付いた為滅亡してしまったのです。家臣の多くは下 妻城主多賀谷氏に降りましたが景頼は潔ぎよしとせず、また戦乱の浅 ましさに悟るところがあって帯刀を捨て鍬を握り、布川城の北側近く の荒れ地開拓に着手したのでした。

けれども胸の内では主家再興の時には第一番に馳せ参じる気構えでお り、その時節の到来をひたすら待ち望んでいたのです。だがその願い も空しく景頼は病床に横たわる身となってしまいました。いよいよ死 期に近づいた時、景頼は長男佐十郎を枕頭近く呼び「佐十郎よお前は このまま農民で終ってはいけません。時期が来たら豊島家の再興を謀 り忠節に励みなさい」と遺言して永き眠りに就いたのでした。

佐右衛門景頼の死後まもなく徳川家康が天下を統一し世の中が平和に なりました。佐十郎は、主家再興を計る時期が来そうにもないまま文 録2年の春、開墾地を押付新田と名付け心ならずも農作業に専念すよ うになりました。

ここに佐十郎の分家忠兵衛に、お雪という美しい娘がおりました。今 小町と評判の高いお雪がおったばかりに一家打ち首の悲劇を受けよう とは神ならぬ身の知る由もなかったのです。

押付新田から現役場を眺めた写真

延宝5年8月26日お雪は散歩に出て布川城を余念なく眺めていまし た。 歳は21にもなったであろう薄化粧したお雪は、今日は一際美し く見えました。そこへ偶然通りかかった年の頃35〜6才の色の黒い 大男こそが評判の悪い鳥番の役人群平でありました。
群平はお雪の艶やかな姿を一目見て茫然と立ち竦みました。この様な 美しい人を自分の妻にしたいと思いツカツカとお雪の側に近ずき声を 掛けたのです。


お雪は日頃村人から嫌われている群平なので気の無い返事をして早々 に家に引き返しましたが群平がしつこくついて来て家に上がり座り込 んでしまいました。そして役人を笠に茶を出せと命令したのです。そ の時父が帰ってきたので命令に従わず知らぬふりの観音様を決め込ん だのですが、父忠兵衛は、役人に粗末すると跡のたたりが恐ろしいの でお雪に酒肴を出させて大いにもてなしたのでした。
男まさりのお雪の頬にはくやし涙が流れ落ちました。

恋のとりことなった群平はその後も度々お雪の家に来ては言い寄って くるようになりました。こんな鳥番役人がと思っても迂闊に争って父 に仇されてはと思いじっと堪えていたのですが、群平はそれを良い事 にますます足繁く通って来る始末です。

そんな或る日の事お雪一人が淋しく留守番をしていた時、またまた遊 びに来た群平が突然お雪の着物の袖に手を延ばしてきたのです。  お雪は今まで堪えてきた無念の涙が一度に吹き出し柳眉を逆立て「失 礼なさると許しませぬ」と凛然と言え放って群平を突き飛ばしました 。群平が再び飛び掛かろうとした所へ丁度父が帰ってきたので危うく 難を逃れる事ができました。 

忠兵衛はそれとも知らずいつものように酒肴を出して群平をもてなそ うとお雪にお酌を命じたが、お雪は嫌とも言えず地の底へでも沈むよ うな心地で塞いでり、一方群平は上気した顔で笑っている。ここにき て忠兵衛は事情を察知したのです。そして鳥番役人の機嫌を取らなけ ればならない今の身を悲しみました。座が白けて群平は流石に居た堪 らず帰って行きました。

群平はその足で隣村の松木村名主権左衛門の所へ行き、恋に悩む胸の 中を打明け「是非お雪を妻に貰い受けたいのだが」と助力を頼みまし た。権左衛門は「これは良い儲け口だわい」と金子十両を群平に用意 させ、まず忠兵衛の近所の人に小銭を掴せて様子を探ることにしまし た。そして、お雪は佐倉藩に仕える武士との婚約が決まって近い内結 納の式が有る事などが分かりました。

権左衛門から事情を聞いた群平は矢も立ても堪らず名主を連れて馬に 一鞭忠兵衛宅に行き「忠兵衛お前の娘お雪をわしに呉れ」と頼みまし た。忠兵衛は「既に娘は他家に嫁入りが決まっています」と言って承 諾しませんでした。

それでも群平は黄金の力と、役人の威光を笠に着て無理矢理にも娘を 所望したが忠兵衛は断固として撥ね付けたのでした。(が腹黒い群平 のこと恋に破れた仕返しになにを企むのであろうか気懸りな所です。)

忠兵衛とは屋敷続きで中兵衛の妹を妻にしている太郎左衛門と云う人 がおりました。今は農民として暮らしをしているが、亡くなった佐右 衛門と同様に豊島家再興の夢を抱いておりました。太郎左衛門には15 才になる午助と言う息子がおり、午助もまた父親の日頃の教えで豊島 家再興のことは肝に銘じておりました。そして暇さえあれば竹刀を握 っていたのです。

或る日意を決して、隣の北方村に道場を開いている田村利平という剣 客を尋ね入門をお願いしました。利平も午助の堅い々決心を見て取り 一諾入門を許した所午助の上達は目覚ましかったのです。利平は更に 江戸で名の有る武芸者のもとで修行させようと一通の手紙を書いたの でした。

午助は師の情けを喜び、父の許しを得て江戸へ旅立つ日も間近く迫っ た時に、おり悪しくも母が病の床に臥す身になってしまったのです。 孝心深い午助は立木の蚊もうの神へ毎晩夜道を駆けて丑の刻詣りをし 、母の病気の平癒をお祈りしました。その満願の日を迎えた夜午助が 神殿に額ずいた時白髪の老人が何処からともなく現れて「母の病気は 重けれど水鳥を食べさせなさい、そうすれば病気はきっと良くなるで あろう」と言うやいなや忽然と姿を消したのでした。

午助は「神の御告げ」と喜び勇み翌日布川城下の池で一羽の水鳥を捕 えて母に食べさせました。母の病気は日毎に良くなっていったのです 。この事を母の兄さんである忠兵衛に告げようと同家の裏口に差掛っ た所、黒頭巾に羽織、大小を腰にした一人の不審な男を見つけました 。腕に覚えのある午助は何奴とばかり傍の杭を抜いて打ち懸っていっ たのですが怪しい男は暗闇にまぎれ逃げ去ってしまいました。この男 こそ群平であったとは知る由もありませんでした。

布川城の近くに海珠山徳満寺という名刹があります。その昔はご朱印 付で本尊の地蔵尊は行基菩薩の作と言われており毎年11月23日よ り29日まで地蔵尊をご開帳し市を開き諸国から多くの商人をが集ま り非常な賑わいを見せていました。

この地蔵市で酒を馳走になた松木村の名主権左衛門は一杯機嫌で押付 新田を通りかかりました。気が付くと太郎左衛門の家の前にいたので す。何気なく家の中を覗いた権左衛門の目に写ったのは、今しも炉を 囲んで鳥を焼いている光景でした。ここで権左衛門は一策を考えまし た。

胸に一物を秘めて権左衛門は翌日太郎左衛門宅を訪れました。
「昨夜鶴を殺して食べたであろう白状せよ、もし鶴殺しの大罪が怖け れば娘お雪を鳥見役人群平様に差し出すこと、さもなければ、明日ま でに金子二十両を用意せよ!」と脅しにかかりました。
余りの無法に太郎左衛門も立腹し一言の下に撥付け権左衛門を追い返 してしまいました。

強欲な権左衛門は儲けそこなった腹いせに群平に「お雪一家が鶴を殺 した」と届け出、受けた群平も又叶わぬ恋の意趣ばらしのため、老中 新堀重郎に訴えたのです。そしてお雪一族にとって非常に残酷な判決 が下されてしまったのです。

一、押付新田佐十カ、忠兵衛、太郎左衛門の三人御法度を破り鶴を殺 し養生抔致し候儀不届に付き獄門に行ふべきの所格別の勘弁を以て家 族同死罪仰せ付る者也。
一、太郎左衛門伜太郎吉妻とよ儀当月自家豊田村久兵衛引取に付親久 兵衛に五貫文の過料。
小町娘お雪を始め一族子供までもが尽きせぬ恨みを呑んで刑場の露と 消え去りました。立木村円明寺住職浄固妙信師は午助の師田村利平と 共に願い出て死骸を引き取り厚く葬ったそうです。利平はまた念仏院 を建て供養したようです。

その後、鶴を殺したことが冤罪であったことが分かり、牧野越中守は新 堀重郎山崎群平と名主権左衛門を追放処分にした。名主の妻は下総白 井の辺の手賀沼に狂死し、群平は利根川に身を投げたそうな。 (1999.1.29完)

泪塚写真

春風秋雨幾百年刑場の跡
押付新田共有地の畑中に
今も尚一族の石塔がひっ
そりと佇ずんでおります

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