利根町の歴史

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一茶と利根町

俳句と言ったら「芭蕉、蕪村と小林一茶(1763〜1827)。」その一茶について、利根町とのかかわりを中心 に調べて見ました。

本題に入る前に利根町と俳句、俳人一茶、芭蕉の関係を記して見ますと。
松尾芭蕉について。早尾の天神様を詠んだとされる句碑が境内にあります。鹿島紀行の芭蕉が布佐(我孫子市) に立ち寄った際の句ではないかとされているものです。

廿五日は天神の祭かな

補記:2012年3月13日― 読みは、「つついつつ ひはあまかみの まつりかな」だそうです。
また、句碑は、「楳華碑」と名付けられているそうですが、「たぬぽんHP」管理者が探し当て ております。「読みと、探索談」はこちらのページをご覧下さい。

○布川の書家、杉野東山の揮毫になる。 東山は杉野野叟(下記、 溝口素丸の門人で師から俳句宗匠として認められ菜日庵野叟と号した)の長子で俳句 は菜日庵を嗣いで二世東山となる。芭蕉句碑にも菜日庵二世東山拝と記してある。書家としての名声がつとに高く その、揮毫を求める人は絶えることがなかったという。

○松戸にあじさい寺として名高い日蓮宗の古刹本土寺というお寺があります。下記、葛飾派で 今日庵門人(利根町出身の森田元夢の門人)5名で芭蕉の句碑を建立し毎年、 10月12日の芭蕉忌に追善の俳座を設けたという。これら5名はいずれも、一茶との俳交が深くまた、葛飾派の主要 なメンバーであった。

句碑には「御命講や油のやふな酒五升」とある。
御命講とは10月14日の日蓮忌のこと。
(余談ながら、この本土寺の過去帳から、国人領主である布川豊島氏が、市川国府台合戦に参戦したこと。また は布佐合戦の実在したことなどが証明されている。)

来見寺の豊島四郎兵衛頼重夫妻の墓のすぐ左に久保田一夢斎の墓がある。一夢斎は 半生を武術の修練に励み、我に返るところあって下記、 一無斎墓の写真

葛飾派三世溝口素丸の門を叩いた俳人である。

茅花(つばな)打止てたのしや筆つ花
と墓に記されている。

師匠の素丸も、
夢さめて広野にあそぶ胡蝶かな
の句を寄せている。

本題に入ります。

宝暦13年5月5日、信州柏原の農家に生まれ、安永6年の春15才の時江戸に出、苦しい奉公生活をする。 22〜3才ごろから葛飾派(芭蕉の畏友山口素堂を祖とし二世長谷川馬光と続く)俳人の群に身を投じ、今日 庵森田元夢(年少の頃馬光の門に入り、馬光没後は三世溝口素丸の門に転じ、素堂の今日庵を嗣ぎ宗匠となる。 ―利根町布川出身)に師事、その門人大川立砂(馬橋)の世話になったようである。
やがて馬光の高弟二六庵竹阿(小林楽斎)に師事するが、竹阿の没後には葛飾派の頭領三世溝口素丸の門人となった。

一茶は28才の時葛飾派の先輩と思われる人々の歴訪をしている。「寛政3年帰郷日記」(葛飾方面から始ま り最初の帰郷まで)によると次のようになる。「3月26日に江戸を出て馬橋・小金原・我孫子・布川(利根 町)・新川・田川(河内町)などをまわった。布川の曇柳斎(元夢)の家に2泊したのをはじめ・・・」この時 は二六庵宗匠として襲名の挨拶廻りか。

翌年の寛政4年3月から同10年6月までの丸6年間(30才〜36才)西国方面を行脚することになる。帰 郷の折父親に西本願寺代参を頼まれた(柏原住民殆どが一向宗徒の環境で育つ)ことにもよるが先師の二六庵 竹阿の遺弟を訪ねての俳諧修行である。二六庵竹阿は晩年大阪に住み西国地方に多くの門人・知己を残してお り、これらの縁故者を訪ね歩いたのである。(一茶が西国を離れるときに、関西俳人が一茶送別の句を集めた のが「さらば笠」であった。)

一茶の書簡出入ノート「急遞記」寛政10年〜文化6年まで12年間の交信記録によれば1位が下総で49、 2位大阪の48で、共に3位以下を大きく引き離している。ことに下総流山の秋元双樹ともっとも頻繁に文通 している。また大阪の多いのは西国大旅行のためと思われる。

享和元年5月21日一茶39才の時、父弥五兵衛が亡くなった。その後はまた江戸に戻り愛宕山、そして隅田 川に近い相生町に居を構えたが、己が地盤たる下総の馬橋・流山・我孫子・布川等や上総の富津・木更津など をしょっちゅう廻って歩くほか、夏目成美の家に出入りしたり、開帳詣りや芝居見物など、忙しいのか暇なの かよくわからない徘徊師生活がつづく。これは、この後およそ10年、さしたる変化もなくつづけられる生活 である。

一茶は、俳諧行脚の杖を布川河岸へ運び、回船問屋を営む 古田月船の家にたびたび逗留した。月船とは森田元夢の門下同志として 親交を結んでいたのである。一茶が親しんだのは、このほか流山の秋元双樹、田川(現河内町)の倉橋一白等 であた。  「一茶漂泊」の「地名別宿泊数一覧表」によれば、布川の月船亭へは49回止宿し、合計289 泊にも及んでいて、他にぬきん出ている。(利根町史第6巻よりー他にも引用多し)

利根町での足跡

享和3年8月7日(1803)晴 一茶は布川に入り、9日と10日自ら琴平相撲を見物している。この時次の句 をつくっている。これは、子供相撲であろう。

  正面は親の顔なりまけ相撲    
     けふきりの入日さしたる勝角力   

時を経た文政6年、この相撲の頃、生国信濃から布川を偲び詠っている。

見ずしらぬ角力にさへもひいき哉 
宮角力蛙も木から声上げる 
松の木に蛙も見るや宮角力 
秋風や角力の果の道心坊  

(道心坊:、広辞苑では一茶の句を引用して乞食坊主としている)
「享和句帖」享和3年に竹〔裡〕といへる(裡)僧の、久しく布川辺をさまよふ。として次の3句有り。

       追れ く(追れ)蚊の湧く草を寝所哉

四ツ時 晴天

空腹(すきばら)に雷ひゞく夏野哉
 雲の岑の下から出たる小舟哉  

「文化句帖」文化元年 布川元貞来、其寛(きくわん)来ル。として

    来るも く(来るも)下手鶯よ窓の梅

(下手鶯=田舎俳人を揶揄したもの)
「文化句帖」文化3年1月の条に次のようにある。
「廿三日 晴 徳満寺地蔵参詣」

段々に朧よ月よこもり堂

「文化句帖」文化3年9月27日の条に「廿七日、晴 一白と布川に入」とあり、また文化3年句日記写」に は次のように見える。

「廿七日、晴 下総國布川の郷、来見寺のかたわら田中の塚に、菰4〜5枚引張って、酒しひる叟(おきな) 有。・・ある里人に問へば、是は此辺りの門に立て、一文半銭の憐みをうけて世をすごす乞食となん。誠に其 楽しむ所、王公といふとも此外やあるべき、財をたくはへねばぬす人のうれひなく、家作らねば、火災のおそ れもなし。・・・今宵は嫡子初七夜の祝ひに其党を集て、子孫長久いのるなるべし。

赤子からうけならはすや夜の露

注)赤子のうちから夜露をいとわぬよう躾ているように見える、と詠んでいる。 また、来見寺かたわらの田の中の藪塚とは、位置関係旧記録からいって馬場の人々が講で毎年旧暦9月7日お 祭りしている弁天様に見受けられる。

下図をクリック大写しになります。
     

平成13年10月23日(旧9月7日)の本日、私の家がお祭りの当番に当り、近所8軒相集まりて祠、境内を 清め参拝しました。お日待ち(昔から、農繁期の最中であっても身体を休めるため作業をしない日を定めた日と されていまして、農婦団欒の色彩も濃い。)宴会の席上、弁才天の由緒と「一茶と利根町」のコピーを配布、昔 話に花を咲かせました。

辞書によると、「弁才天は音楽の神で財宝利得をもたらすので弁財天の字を当てている」とあり、また「水の神 として白蛇を飾った宝冠をいただき一面八臂の像では宝珠と剣や弓矢などを持っており、一面二臂の像では左膝 を立てて琵琶を弾じている。」とありましたそこで興味を持って古い掛軸を拝見したところ、一面八臂像で左背 に琵琶が立てかけてありました。場所は来見寺(写真現在の来見寺の隣の利根町保健センターの道向い。

文化3年10月25日布川来見寺に泊まり次の句を詠む

切株の茸かたまる時雨哉

「七番日記」文化7年3月29日の条に次のようにある。
廿九日 晴 野々下村通り柏村にかかりて、我孫子駅にてー昨夜の三人ニ分ル。布川ニ入。とある。

「七番日記」文化7年4月4日の条に次のようにある。
四、寅刻雨、巳刻ヨリ晴 大南吹、水戸候牛久ヨリ若柴通小金泊」
五、大晴 として沢山の句を連ねる。
中で有名な

夏の夜やいく原越る水戸肴

(水戸肴の句他に1句有り)

下総の四国めぐりやかんこ鳥

も含まれている。
当時、一茶は布川の古田月船邸を宿としていた。
そして翌六日の条にはかなり長文の記事を載せる。 (百観音で知られる取手宿の峠の台、長禅寺で、下総新四 国相馬霊場八十八ケ所巡りの鹿島の人から一行の内の老婆が舟湯に入ろうとして、その舟へ登ろうとして踏板を 踏みはずし、水死した話を聞き、一茶はふと明日は田川の俳友倉橋一白のところへ行こうと思った。)

六、曇 田川(河内町)ニ入。
下総国にうつし置る四国八十八所の仏廻りすとて、鹿島辺の者とかや、急ぎもせぬ舟もよひして、此渚に舟をつ なぎてよるの泊をする折から、舟場というものにおのおの浴(ゆあみ)をなんしたりける。その中に六十二の老 婆ありけるが、足よたよたと舷(ふなばた)ふみはずして忽千尋のそこにしづみぬ。

「七番日記」文化7年に田川題(題詠句)として次の句有り

或時はことりともせぬ千鳥哉       

「七番日記」文化7年6月16日の条に次のようにある。
十六 晴 戸頭より大鹿、新町、取手、小文間と渡りわたりて布川に入。
けふ布川大明神祭りとて、つく舞といふ事有。

昼顔の花の手つきや狙(さる)の役

かって祭りは6月14.15.16の3日間行なわれ。16日の神事「つく舞」は非常に有名であった。
「御船」と称する船形を造り長さ約8間の帆柱を立て各種の演技を奉納した。竹弓 を持って帆柱の上でする「舞」の妙技が圧巻で、また、「御船」の中では鶴亀鹿猿龍などの面を被った8、9才 の少年数人が地舞を舞い、さらに大蛇が姫を呑もうとするのを山伏が防ぎ護るの筋のドラマも演じられた。
現在竜ヶ崎市で行われているつく舞

「七番日記」文化7年7年10月の条に次のようにある。
十 晴 布川ニ入、金比羅講興業。
十一 雨 とあり、次のような句がならんでいる。

霜がれや勧化法度の藪の宿    
       寝衾や岑(みね)の紅葉ばかかれとて
          蟋蟀のわやわや這入る衾(ふすま)かな

「七番日記」文化9年1年15月布川の古田月船亭で詠んだ句。として

おのれやれ今や五十の花の春

「文化句帖」文化12年(布川来見寺)

赤門やおめずおくせず時鳥   

「七番日記」文化14年(1817)8月の項にはこう記されてある。

べったりと人のなる木や宮角力

「文化句帖」の文化元年九月七日の条に布川滞在のこととして、次の記述が見える。
七日 晴 押つけ(付)村に逝(ゆく)  (注、鶴殺しの泪塚参照)
そのかみ天和の此(ころ)となん、鶴を殺して従類刑せられし其の屍を埋し跡とて、念仏院といへる寺あり。 200年の後に聞さへ魂消(たまげ)るばかり也。况縁ある人においておや。

見ぬ世から秋のゆふべの榎哉
植足しの松さへ秋の夕哉       

また、それかれ八日後には、一茶は次のように書いている。
十五日 晴 布川祭
今夜は鶴殺しの逮夜(忌日の前夜)とて、念仏院に其回向あれば、かいわい群衆大かたならず。天和より四万 三千日にあたるとなん。ころしも秋風寂々として小の雁さへ昔おもはれてかなしく、我も念仏一編のたむけな す員(かず)に入りぬ。

地内にて

君が世やかゝる木陰もばくち小屋

下総布川の秋祭りの晩、信濃乞食俳諧寺一茶こと小林一茶は船問屋善兵衛こと俳友月船の家に逗留していて、 夢を見た。(丁度4万3千日前の今日、町内の押付で無残な一家処刑が行われた。こちら「 お雪哀話」からお読み頂くと、物語が逆転しているさまがお分かり頂けると 思います。)

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えながら行くと・・・「うぬは山崎一味の者じゃねえのか」太郎左衛門 が割れ鐘のような声を出し、太い眉を動かした。「とんでもない。わたしは、旅の者、鶴一件にはなんのかか わりもない」手まで左右に振って弁解したが、納得しない顔つき、見る見る大きくなって迫る。恐ろしさに身 の毛がよだつ。

そのときだった。「鈴木太郎左衛門、御用だッ」「山崎群平、これにありッ」どやどやと、踏み込んで来た人 数の物音がした。大勢が揉み合っている。と思った次の瞬間例の割れ鐘のような声がした。「うぬこそッ鶴を 獲りおって」古びた陣羽織を着ていたが、まがうかたなき太郎左衛門。しかも背後に動く山のような人数を連 れている。

大将株だろうか、別の陣羽織姿の男が一人二人。鈴木一族の佐左衛門と忠兵衛のようであった。「御用だ ツ」「鶴盗人めツ」今度は鈴木勢が山崎勢に襲いかかった。鶴を手にしていた連中はたちまちに捕えられ、冷 たい風の吹く田圃道を鶴捕寺こと念仏院へ引き立てられて行く。数えると、ちょうど十人。(仇討をするんだ) と合点する。

今日という日は天和(2年9月16日供養塔建立)鶴殺しの処刑から4万3千日。刑場に散った鈴木一族の霊を 慰める念仏供養が、折からの念仏院で行われようとしている。眼前に溢れはじめた群衆は、そこへ行く人々に 違いない。中には、近くの博打小屋に消えるのかも知れぬが。「治部九郎も権左衛門もいる」群集が騒ぐ。例 の鶴1件で鈴木一族を密告した行徳新田の名主治部九郎と松木村の名主権左衛門も、捕らえられた十人の中に いるらしい。とすると、かって「お上」の側であった者たちが、すべて縄付で勢ぞろいしたことになる。

「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」念仏の声が起こった。念仏院が近かった。そのせいか群集の声が、すべて 念仏になってしまうような気がする。ふと気がつくと、念仏院へ曲がる角の榎の大木が、さかんに黄葉を降ら していた。さすがに秋だと見ていると、路傍の並木の隙間に植え足した小松まで緑であるべきものを少し黄に 染めている。

「山崎群平ツ、治郎九郎」太郎左衛門の声はすでに裁きが進んでいるのを告げていた。人の流れが停まってし まったので、思い切って前を掻き分けて行く。いたいた、鰐口の下、サイセン箱の手前で、山崎群平以下の十 人が首の座に直り、今まさに白刃を浴びようとしている。200年後に主客は全く転倒したのだ。(珍しい仇討ち ー)仇討ち自体はじめて見る。(200年したら、また、この逆の仇討ちになるのだろうかー)なんとなくわびしい 風が、胸の奥を吹き抜けて行く。

「エイツ」意外や、若い女中の掛け声であった。―鶴騒動の発端にかかわる太郎左衛門の娘、白装束の今様小 町お雪が、邪恋の張本人山崎群平の首を打ったのである。(あれが本物のおゆきかー)と、あらためて顔を見 ようとした瞬間、その足下から群平の首級が宙に浮いて、プーとふくらんだ。真っ白にふくらんで、空に昇る。 そして、念仏院の屋根の高さから、急に勢いよく羽ばたいた。首を細く長く伸ばして羽ばたいた。

「鶴だツ」鶴になっちゃったツ」群集がどよめいた時「次は信濃乞食俳諧寺一茶」とどろく声に、一茶は思わ ず首をすくめた。よくも名前を知っていた。(こんな運命だったのかー)わけがわからぬまゝ突然の地獄行き を悲しみながら、はっと目を覚ました。おわり   

余談になりますが、このページで紹介された、下総新四国相馬霊場八十八ケ所巡り(お大師っさまと言って100 人以上もの信者が連なり番所番所で接待のご馳走が頂けるー平成12年私の家でもその接待費として500円拠出し ています。―現在でも壮観です。)については、機会がありましたら掲載する予定です。狂歌師抜村も一句詠 んでおります

南無大師遍照金も田で染まる
     紺屋さんらは何で食うかい

(と、私はこのように解釈しております。)
   (引用文献―利根町史、小林計一郎著 小林一茶
              伊藤 晃 著 一茶下総旅日記 より)

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